はカフェーの支配人が望みであつた。タキシードかなんか着て(ボンボン先生はたしか年中エンビ服だか礼装してゐた)酔つ払ひの騒音の中で、松だかモミだか鉢植ゑの植物かなんかの彼方に、間抜け面でいとも厳粛に注意を怠らぬ顔付をしてゐる。誰が見ても、誰よりも馬鹿だ。こんな気のきかないヌカラヌ顔付といふものは人に具はる天性があつて、誰にもできるといふものでなく、私にはしごく向いてゐるのだ。私はひそかに自信をいだいて出向いてきたので、そこには少なからぬ抱負もある。抱負は何ぞや。
「私は虫歯が痛むときに、痛いと言へないこの商売が気に入つてゐるのです。会社につとめてゐるでせう。課長が私をよびつけて、君は朝から仏頂面をしてゐるぢやないか、何か不平があるのか、言ひ給へ、と怒鳴ります。すると私は、実は虫歯が痛いのです、と蚊の鳴くやうな声をだします。私は実際虫歯が持病で、この痛さには泣いてゐるのです。私は我慢がないから泣き面をします。然しです。カフェーでは私が泣き面をしても、課長みたいに仏頂面を気にかけるお客はありませんよ。常に黙殺され、無視され、バカのバカですから、私は虫歯が痛くても、痛くない顔付をして、心ひそか
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