きか、書かねばならぬか、真実、わが胸を切りひらいても人に語らねばならぬといふ言葉をもたない。野心に相応して、盲目的な自信がある。すると、語るべき言葉の欠如に相応して、無限の落下を見るのみの失意がある。
その失意は、私にいつも「逃げたい心」を感じさせた。私は落伍者にあこがれたものだ。屋根裏の哲学者。巴里《パリ》の袋小路のどん底の料理屋のオヤヂの哲学者ボンボン氏。人形に惚れる大学生。私は巴里へ行きたいと思つてゐた。私の母も私を巴里へやりたい意向をもつてゐたが、私は然し、暗い予感があつて、巴里の屋根裏で首をくゝつて死ぬやうな、なぜか、その予感から逃れることができなかつたので、積極的に巴里行を申しでる気持にもならなかつたのだ。思へば落伍者へのあこがれは、健康な心の所産であるかも知れぬ。なぜなら、野心の裏側なのだから。
さういふ一日、私は友人にも、母にも、すべてに隠して、ひそかに就職にでかけて行つた。神田のさるカフェーで支配人を求めてゐた。カフェーの名は忘れたが、私は新聞広告を見て意を決した。誰の目にも一番くだらなさうな職業だから、意を決したのだ。
私はその日をハッキリ覚えてゐる。昭和五年
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