当然必要だけれども、性格に主点を定めて人生を見ることが少ないし、その文学活動に於て易断を行うことはないものである。
 易断は性格判断でもある。文学と易断はその点ではまるで違ったものなのである。

          ★

 たとえば、反家庭的とか、家を捨てる性格というものは、文学上の問題とはならない。家庭に反せざるを得なかったこと、家をすてざるを得なかった条件が問題となる。必ず家庭に反し、必ず家をすてる人間というものは存在しないのである。
 私が若くして家をすてたのは事実だが、反家庭的かどうかは疑わしいし、家をすてる必然性も疑わしい。金をよく散ずることも事実だが、これも性格であるか、思想であるか、にわかに判じがたいところで、私が思想的に蓄財する可能性は少くないのである。また、私の散財が思想的な結論からきていることも云えないことはない。性格と思想が同じものだということはウソである。相反する思想を所有することはできるが、相反する性格はそうはいかない。
 同一人が左右両思想のいずれかへ走り易いという性格はあるが、この場合の左右というのは性格に無関係な思想上の左右であるか、蓄財か散財か、家庭的
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