か反家庭的か、ということは性格として相反する左右であるが、思想としては同一人がいずれへ走る可能性もあることで、私がにわかに蓄財家になっても別にフシギはないのであるし、いつでもなれることなのである。あるいは、性格とか思想というよりも、意志の問題かも知れない。私はむかし薬品中毒したが、今はそうではない。中毒者の性格ということも一応考えられるだろうが、実際は意志が左右する問題であって、意志は性格よりも後のものだ。もっとも、意志することも一つの性格だという見方があるかも知れないが、すると意志以前は何と云うべきであろうか。
 徳川家康は五十を越し六十ちかくなっても、にわかの大事に会うと、顔色蒼白となり、手の爪をかむクセがあったという。関ヶ原の時、戦闘開始するや、秀秋の裏切りがハッキリするまで形勢全く彼に非で、金吾の奴にはかられたか、と蒼ざめて爪をポリポリかみつづけていたという。
 こういうところは今日の医学では小心者の精神病者の性格である。ところが家康という人はにわかの大事に会うとテンドウして蒼ざめたり爪をかむけれども、その逆上コンランを押し鎮めて後には、周到細心、着実無比の策を施し、眼をはたら
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