わりだすのは不可能ではなく、公約数の算定法は相当に合理的でもありうる筈のものであろう。
私は易断には不案内だが、人間を性格的に観察することは文学をする者にとっても甚だ重大なことであるから、観察ぶりも似たようなものだろう。
ただ文士は易断する必要はない。結論をだす必要はないし、ここに二者の相違があるのだが、易者とちがって、文士は結論がだせないのである。
まず文学上の性格判断というものは、性格に先立って、万人は同じもの、同じ可能性をもったもの、というのが常識として潜在しているものである。
性格は、可能性の多少に属しているだけのものだ。可能性の多少は、その人の一生に、必然的に現れてくるものではなくて、環境や偶然に左右され、諸条件に相応するものだ。
犯罪の弁論だの判決というものも、ここまでは文学同様常識であり、その上に成り立っているものであろう。
文学は可能性の探求である、と一言にして云いうるかも知れないが、文学にもいろいろ流儀があって、性格の可能性を探す人もあろうが、むしろ人間の可能性ということの方が大事であり主流と申すべきであろう。
性格の可能性ということならば、それが環境や
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