めていますから、犯人の自供をまつ必要なく、抜き差しならぬ犯人と推定することが可能であったようです。
これに反して、犯人の自供以外に決定的な証拠がないという事件があって、この事件もそれに類しておりますが、終戦前までの日本は、こういう時に自供が最大の証拠となったものですが、自供を証拠に用いるということは警察制度の智脳的な発育を害し、いつまでも伝馬町の性格をまぬがれぬという危険がありますね。その一例に類するものが今回のこの事件でありましょう。当人の自供の有無に拘らず、決定的な物的証拠によってのみ犯人か否かを定めるのが何よりですが、そう確実な物的証拠のない事件が少くなくて、たとえばこの事件のように被害者も容疑者も浮浪者まがいのヤミ屋や窃盗常習者だという場合にこれという物的証拠もない。こんな事件に限って世人も関心をもちませんから、取調べもゾンザイになり、自供があると、多少の納得しかねるところが現場の状況などに残っていても、ピッタリ合う証拠だけとりあげて犯人ときめてしまう。だいたいどの事件の証拠を見ても、これが犯人だときめてみると大がいそれで間に合う性質があるもので、浮浪者と窃盗常習者の殺人事件
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