るものではない。人間の気持はたとえ十六の少年でも、そう単純で、ハッキリしたものではあり得ない。
 しかし、自殺ということを一応言っておきながら、ナイフを自殺用の道具と云いたてずに、護身用と云っているのは、子供らしく正直な良いところかも知れない。もっとも殺人用と解されるのを怖れて、それにやや用途の似ている自殺用と言いたくなくて護身用と云ったのかも知れんし、近ごろは自殺といえばアドルムであるからジャックナイフでも自殺ができるということをこの節の少年は気がつかないのかも知れんな。街でポンピキによびとめられる。この辺も、汚いけれども、なんとなく童話の世界。北風の中の遍歴という詩情がないことはない。
 昔の女の子が家出すると、悪い奴が駅や道に待ちかまえていて、呼びとめて、だまして売りとばしたものであるが、ポンピキが男の子をひッぱるというのはあまり聞かなかった。今では、こういうところは大人も子供も同じこと。自ら吉原門内へ踏み入ってならとにかく、ただの盛り場の賑いを歩いただけで、子供がポンピキによびとめられる。近代派のポンピキはじめパンパンにしてみれば、お金さえ持ってればお客だという実質精神。もっとも十六よりも幼いパンパンがタクサンいるのだ。
 今の少年は家庭に於ては少年であるが、一足出ると大人の門がひらかれていて、同じような経験に遭遇する。パパは会社と家との往復の道のことしか知らないが、子供は映画を見たり、お茶をのんだりしてパパの知らない盛り場を歩くから余計大人の門を実地見学しているかも知れん。しかし、少年には少年らしい理想もあるし、独特の倫理や潔癖を持っているから、大人の門を目の前に見て怪人物の招待をうけても、めったに大人の門をくぐりはしないものだ。オカマ殺しの少年も大人の門をくぐったのはこの日がはじめてのようである。親というものは、子供は案外シッカリしているということを銘記する必要がある。親が酔っ払ってたった一度盛り場へ行くと忽ち怪人物の招請に応じて後々大後悔に及ぶ憂い甚大であるが、子供はそんなに脆くはないものですよ。
 子供を信頼せず、あんまり疑ると、そんなに疑るなら本当にやってしまえ、という気持が次第にたかまり、口実あらば実行せん構え十分になるのが普通である。なぜなら、子供には、潔癖と自制心と同時に、むろん性慾もあるし、甚しい好奇心もある。よき折あって、罪悪感を他に転嫁
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