、とうとうお手伝いの仕上げを完了するとは恐れ入った低脳の両親である。相当の社会的地位にあり、一通りの学問はあるのだろうが、何を学んできたのかしらん。人間の心理をといた小説をよんでも、それぐらいの子供の心理に通じるのはヒマがかからない。教育をうけない労働者でも、自己への省察や周囲の事実からの無言の教訓だけで、一通りの心理通になっているのは自然なのだが、男女社員を率いて長と名のつく人物で、こう低能なのは不思議でワケがわからない。
映画も見たいし、ダンスもたのしいし、銀ブラも、レストランをおごってもらうのも愉しいという娘の心境は非難すべきところはない。そういうことがキライ、家事が好きだッたり、読書や学問が好きだという人にくらべて、彼女の方が道徳的に低いということにはならない。好き好き、趣味の問題である。私が女房を選ぶんだッたら、家事が好きだという型よりも、遊びの好きな型の女を選ぶ。その方に魅力をひかれるのだから。これも好き好き、趣味の問題で、あげつろう性質のものではない。
娘が多少の自由を欲した気持は当然で、八時という門限をきめて反逆のお手伝いをしていた両親の低脳ぶりの方が、バカバカしくて話にならないのである。罪悪感を他に転嫁する口実が成りたてば、子供は潔癖好きのブレーキをすてて、好奇心の方へ一方的に走りたがる。そんなに疑るなら、疑られるようになってみせるわ、というようなインネンのつけ方は子供には最もありがちな通俗なものだ。誰の胸中にも善悪両々相対峙しているのは自然で、その対峙を破って悪の方へ一方的に走りだすのは当人にも容易ならぬ覚悟を要するものであるが、それを最も簡単に破らせ易いキッカケとなるのは、親がそのことで疑りすぎてヤケを起させた場合。娘の方もいくらか悪いところがあるようだ。なぜならヤケまぎれに一方的に走りだす口実を得ても、実際にそれをキッカケにして踏み切る娘よりは、まだ踏み切らない娘の方が多いだろうからである。しかし親の低能が、それ以上、はるかに甚しいのは当り前のことだ。
いっぺん踏み切ってしまえば、あとは男次第。男が女を愛してくれて、両親との生活よりも楽しい生活を与える力があれば、娘はそッちに同化する。踏みきった以上は、それが当り前で不思議はない。男が詐欺の常習者と分っても、お金に不自由なく、女にゼイタクをさせ、可愛がってくれる以上、その生活に同化しても
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