のは普通に映画のとらない手法だ。喋った言葉の内容から怪しみはじめる手法は普通に用いられるものであるが。
 男の上衣が吊るされているので怪しいと思いはじめ、寝てみて男と分ったとは、どういう状況に至って確認したのか、まことに汚いこと夥しい話であるが、「たけくらべ」やスガンさんの山羊や、浄ルリのサワリから、いきなりここへ突入する表裏抱き合せの奇怪さ、一番キレイな幼いものと大人でも顔をそむける汚いものと一体をなしている筋書きが、あまりにも尋常を欠いて、非現実的、私流に言うと童話的というわけなのである。しかし天女と安達《あだち》ヶ原の妖婆と揃って一人の少年を成しているのは別にフランケンシュタインの一族一味ではなくて、日本の現実の一端であり、現代の少年少女の生態にはたしかに此のようなところもあるのである。彼や彼女らの無心に歩くところ、その門はどこにでも開らかれているのだから。
 女だと思いのほか男である。だまされたから怒るのは自然で、これをただ黙ってヘラヘラ笑っておれば、その方が薄気味悪い話さ。しかし、怒ったから、いきなり刺すというのは一般の人のよく為しうることではない。家出、それに自殺という気分も若干つきそって甚しく悲愴に昂揚していた心事の際であっても、いきなり人を刺すことは多くの人の為しがたいところである。
 だまされたと知ってイキナリ武器をとって報復を志すのは幼児の時はややそうであるが、小学校へ行くころとなれば罪の意識も芽生えて、少数のほかはイキナリ武器をとるようなことは控えるようになるものだ。大人は罰せられるから、益々もって、やれやしない。幼児と同じようにイキナリ武器をとって報復するのは、ただ国家というものがあるだけだ。国家に於ては、幼児にだけしか通用しない報復の理由が、戦争をひらく立派な理由になるのである。実にどうも国家というものは赤ん坊よりも理不尽なダダッ子、ワガママなギャングである。
 だまされたと云っても、女だと思ったら男だったというようなことは、大人の世界では怒りに価するものではない。人生の表街道のものではなく、裏街ですらもなく、他人にそう邪魔にならない路傍か隅ッこにころがっていて、グロテスクではあるがバカバカしいだけの存在だ。こんな笑止な化け物にくらべれば、政界、官界、実業界、教育界、宗教界、文壇、学界、もっと妖しく実害のある大化け物は他のどこにでも見られる
前へ 次へ
全18ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング