ことだ。ナイフが何万本あっても足りやしない。舌が三枚も五枚もある化け物など政界にいるが、そんなのも大した化け物ではない。十六年も生きていればオカマ以上の実害ある大化け物と交渉のなかった筈はないのだが、オカマには気がついても大化け物には気がつかないとは、頭の悪い少年だ。
世間には、大人の世界に無智不案内な子供が純でスレていなくて鷹揚だというような見方もあるのだが、何事によらず知らないということは賞讃の余地がないようだ。知ることと、行うこととは違う。利口な人間は知りたがるし、知っていて正邪を判じる力があり、敢て悪を行わぬところに美点はあるかも知れないが、単に知らぬということは頭が悪いというほかの何物でもなく、長じて知るようになると、純変じてどんなスレッカラシになるか分りやしない。純などゝいうのはつまらぬ時間の差で、しかも甚しく誤差の起りやすい要素をふくみ、わが子に対してそんな判断で安心していると、長じて忽然と妖怪化して手に負えなくなるのである。
満十六といえば、理解力はほぼ大人なみに成長しかけているものだ。この少年の人生の理解力は低く、いささか低能で、辛うじて映画によって人生を学んでいたようだ。手記の中にも、暗い気持で映画館をでて、ピースを一箱買ってみたが、まずかったというような描写が突然現れる。そういうところも映画的である。失恋か何かでアンタンたる気持の主人公がタバコを吸ってマズそうに捨てるような場面がホーフツとしている。そんなことよりも言わねばならぬ大切なことは他にタクサンありそうだが、そういうところはアッサリとばして甚しく場面的な情景描写にだけ念が入れてある。つまり映画的にしか自分の人生を回想できないのであろう。
低脳だから人を刺したが、理解力や判断力や抑制力はモッと生長するであろうから、長じて兇悪人物になるとは限らない。彼は家族たちに理解せられざることを悲しみ、孤独と観じ、人にだまされたのを怒ってはいるが、人をだまそうとはしていないようだ。低脳ではあるが、ヨコシマではない。人を刺すこと自体も、映画と自分の区別を知らずに模倣するほど低脳なのかも知れない。
しかし、これほど低能でも、自分を孤独とみる悲しさがあるのは、人間というものは切ないものだ。実際はこの少年ほど母の愛に恵まれている者はそう大勢はないかも知れないのだが、そのような判断は持っていない。しかし、
前へ
次へ
全18ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング