もつ者と、同化する者と二つの型がありうるのかも知れない。そして同化する型が、催眠術的な関係に類似するように思われる。又、町医者などには、催眠術的な説得法を診察にとりいれている例が少くはない。私自身はその方法に不安を感じ、そういう医師から遠ざかるのが例であるが、人によってはそれが効き目を現すかも知れないから、一概に否定することはできない。
邪教の要素というものは、一見健全な実生活に於ても活用せられて、怪しまれずに通用していることが多いものだ。三流の教祖のような低脳な大臣もいる。学者もいる。
特に私が邪教に関聯して思うことは、先にも述べたが、検事の訊問とか、判事の判決とか、法律上のことで、法の運用というものは、最も常識的で、健全でなければならないものだ。けれども、易者的、町医者的な、予期や、牽強附会から絶縁するということは、なかなか人間の為しがたいところである。しかし、法を運用する者は、自分が「ナマ」の人間であってはならぬこと、感情なく、ただ過不足なく判断する機械のようなものだということを忘れて仕事に当ってはいけないだろう。邪教的な要素と最も絶縁されたものでなければならないのである。
「チャタレイ夫人の恋人」を告発した検事長なる人の言説を見ると、すでに感情的であるだけでも、法を運用する者としては落第していると私は思った。感情というものは、目隠しするもので、広い視野を失し、中正を失するものだ。仕事の上の説話に当ってこういう感情的な表現や放言をするようでは、法律家の資格はない。これが「長」と名のつく法の運用者であるから、なさけない。伊藤整の方が、よほど冷静で中正を失くしていない。法に対処した態度に於て、アベコベの結果を見せている。「チャタレイ夫人の恋人」がいかように裁かれるにしても、告発者の感情的な態度は、法律によっては許されても、人間によっては許されないものと知るべきであろう。
私は法を運用する人々は最も邪教の要素から絶縁される必要があると思うから、法の運用にからまる邪教的な要素というものが、甚しく気にかかる。そして、その観点から、検事の訊問ぶりや、論告や、判事の判決の具体的な例をとって、巷談で扱ってみたいということも考えていた。けれども検事の訊問というものは、垣間見るわけにもいかないから、適切な例を知ることができない。
犯罪というものは、ぬきさしならぬ物的証拠を
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