安吾巷談
巷談師退場
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)強直《ごうちよく》した
−−

 巷談の十二は「京の夢、大阪の夢」京都大阪をひやかしてスゴロクの上りにしようという予定であった。春のうちからこの上りだけはきまっていて、国内航空路が年内に開通するかも知れんという新聞記事などを見るにつけて、京大阪へ空から乗りつけてやろうなどと内々ハリキッていたのである。
 浮世はままならぬもので、連載の新聞小説チチとしてはかどらず、ようやく筆をおいたのが十月十七日午前九時半。京大阪へでかける時間がなくなっていた。第一、疲れていましたよ。半年の悪戦苦闘。別に新聞小説というものと悪戦苦闘したわけではなくて、毎日毎日、来る日も来る日も実にキチョウメンに二十四時間しかないときまっている天文暦日の怪と争ったのである。日本の新聞小説というものを書いていると、「二十五時」などゝシャレることはコンリンザイできません。毎日毎日が二十四時間しかないという怖しいキチョウメンさが骨身に徹するのである。
 この半年というもの、二十四時間という怨霊が、ねてもさめても私の肩にガッシリとしがみついていた。この怨霊から解放された数日間の空白状態というものは、奇妙なものだ。時を同うして一万何千名の御歴々がパージから解放され、解放旋風というものが吹きまくっていたようだ。ずいぶん日本の酒が減ったろうな。一万何千名の御歴々をとりまいて、十万人ぐらいの御歴々が毎日毎晩旋風と化していたのだから。この大嵐の中では、僕などは微々たるソヨ風、第一、半年間二十四時の怨霊に痛められた肉体というものは、旋風と化するほどの酒をうけつけてくれません。胃袋は火星人なみに弱化していたのである。一週間ほどコンコンとねむりました。ネムリ薬ものまず、さしたる酒ものまず、ただコンコンとねむり、時に街を歩く。街がまったく生れ変っていた。映画館が私をまねく。思えば、そういう物と絶縁されていた半年であった。
 新聞小説チチとして進まず、とても京大阪へでかけられないと分ったのは先月のことで、幸い静岡市に浅草の観音様、一寸八分の御本尊の開帳があるという。人に見せたことがないという秘仏を、所もあろうに、浅草ならぬ静岡で開帳するというのが珍であるから、そこは巷談師の心眼、これ見のがしてなるべからず、これを巷談の上りに借用しよう
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング