れたが、岩田さんや岸田さんなどがやっていた新劇の研究生だ。今、某誌の編輯者をしている橋本晴介君などの同門同輩なのである。小林秀雄の妹が同じように研究生であった。
 この山口は小石川白山下に門戸をはる白眼学舎、小西某という占師の甥で、この占師の家に寄食していた。私は中学時代によくここへ遊びに行って、占師というものの生態に興味をもつようになった。白眼学舎は占師の中ではインテリで、早稲田の卒業生、沢正《さわしょう》と同級生であった。私はフランス語がよめるようになると、白眼学舎からフランスの占術の本をかりて、よんだ。占術の研究、特に骨相、手相などの研究が、西欧ではフランスが本場なのだそうだ。
 しかし、要するに占術というものは、占う術の公式の中に秘奥があるわけではないようだ。易の卦《け》にしてもそうだ、ゼイ竹をくって卦をみる。その卦になんとか然るべき運勢の判断がでているわけだが、実際は易者の判断次第で、どうにでも理窟のつくシロモノなのである。
 したがって、易者が催眠術者の状態になりきり、相手が被術者の状態になりきっていると、時に妙な的中率を示すようなことが起りうるかも知れない。ゼイ竹をくったり、カードを並べたりするのは、催眠術者、又はミコのような精神状態に自分を持って行く方法の一つであるかも知れない。
 けれども、一般に、易者というものは、もっと安易である。そして、現実的である。彼らは、妄者の顔や人柄から判じ、最大公約数的な質問や判断で狭めていって、一応の的中率を示す方法を心得ている。
 私は検事の訊問などにも、易者と同じような最大公約数的な設問法がとりいれられているムキがあるような気がする。時に被告が検事の催眠術にかかったなどといいがちなのは、被告の弱点を最大公約数的につくので、両者の焦点がずれていても、ぬきさしならぬような結論がでてくることが有りがちではないかと思うのである。
 これは医者が患者を診察する場合にも起り易い現象だ。ここが痛みますか、とか、じゃア、ここを押すとこんな風じゃありませんか、というような訊き方が、最大公約数的に適中していても、真実からはズレている場合が起り易いと思われるのである。私は医師、特に内科の診断を乞う場合、診断をうけながら、甚しくその不安を感じるのが例である。医師がある種の予期をもつ場合、患者はそれに対して敏感であり、その結果として不安を
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