アルネ・ボルグと、チャールトンも一しょであったと思うが、あるいは私の記憶ちがいで別の機会であったかも知れん。
これが外国の水泳選手来朝の皮切りであったと思う。当時の日本の国際レベルの選手は高石一人だが、彼は競泳界を引退するまで、一度もワイズミュラーに勝つことができなかった。最も接戦したときでも、百米レースで一秒ぐらい差をつけられ、ターザン氏は全然無敵であった。二百米の世界記録はターザン氏のが今もって破られずにいるように記憶するが、あるいは破られているかも知れない。今度の日米競泳で古橋のだした新記録なるものはターザン氏の記録には遠く及ばないのである。
この最初の国際競泳は、なんとか玉川という遥か郊外で行われ、終点で電車を降りて、多摩川ぞいの畑の中をトボトボ歩いて遊園地の五十米プールに辿りつく。見物席はサーカスと同じように俄かづくりの小屋掛である。
ワイズミュラーはプールのまん中までもぐっていって、顔をだしざま、水をふきあげて、ガガア! という河馬《かば》のマネ(ではないかと思うが)を再三やって見物衆をよろこばせた。天性無邪気で、当時からターザンに誰よりも適任の素質を示していた。
陸上水上に限らず、短距離の速力はほぼ人間の限界近く達しており、ワイズミュラーの記録は今日でも大記録であるが、日本来朝の時には高石がいくらか接戦することができたから、当時に於ては競争相手のないアルネ・ボルグの方が驚異であった。彼は千五百を十九分七秒で泳ぎ、その後の二十年ちかく破られなかった。世界二位のチャールトンと一分ぐらいのヒラキがあり、当時の日本選手に至っては、二十一分台はごく出来のよい方、二十二分以上かかっていたのである。時計のマチガイではないかと、真偽を疑問視されていたほどである。やせた男で、細長い手を頭の前でくの字に曲げて軽く水へ突っこみ、チョコチョコ、チョコ/\と水をかいていた。
牧野、北村という中学坊主が現れて突然日本は長距離王国になったが、彼らもアルネ・ボルグの記録は破っていない。横山、寺田などもダメ、天野が戦争の直前ごろに、十八分五十八秒いくらかぐらいで、ようやくボルグの記録を破ったのである。
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日本の水泳が世界記録を破るようになってから、日本水上聯盟はやたらに、そして不当に世界新記録を製造しすぎるようである。終戦後は殊のほか、それが甚しい
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