リムピックでは十種競技にでたように記憶する。水陸を兼ねてスポーツの名手であるから、世人がアダ名して斎藤兼吉とよび、アダ名の兼吉で通用していたが、万能選手だが、六尺豊か、骨格鬼の如く、しかし甚だ心やさしく、女性的な人であった。
このとき、オリムピックの一次予選で、兼吉選手が十種競技の走幅跳に二十尺五寸で、日本新記録であったが、六米ちょッとで今の日本の女子記録と同じぐらいである。第一流のジャンパーが、五尺二寸ぐらいで、走高跳に優勝している始末であった。今の女の子の記録はもっと上である。それから四年たつと、織田や南部が現れて、中学生のうちから一米七五ぐらい跳んでいる。兼吉先生の当時は創世紀である。
内田、斎藤、両水泳選手は、アントワープのオリムピックに於て、自由形を片抜手で泳いだ。自由型とある通り、どんな泳ぎでもよいのである。このとき、ハワイのジューク・カワナモクが自ら発明したクロールで泳いで、大差で優勝した。百が一分三秒いくらかぐらいであった筈だ。内田、斎藤両選手はクロールという新発明の泳法を習い覚えて帰ってきた。兼吉先生は新潟中学の水陸兼用のコーチであるから、カワナモク式の原始クロールは先ず新潟中学へ伝えられ、この伝授の世話係は私の兄献吉であったようだ。彼がどういうわけで母校の水泳の世話係をやっていたのか、その理由が私には分らない。スポーツには全然縁のない男だ。しかし、極端に新しがり屋の珍し好きで、それに世話好きであるから、クロールという新型の速力に驚いて、なんとなくジッとしていられなかったのかも知れない。新渡来のクロールをいちはやく身につけたが、新潟中学は今もって、一度も、水泳で鳴らしたことがない。風土が水泳に向かないのと、したがって、今もって、プールを持たないせいである。そして最初にプールをもった茨木中学から高石勝男が現れたのである。私もカワナモク型原始クロールをいちはやく身につけた一人だが、しかし私は百米を今の日本の女子記録よりも速く泳ぐことができなかったようである。
高石勝男は長距離から短距離専門に変って、まず日本で最初の国際レベルの選手になった。ここ十数年、日本水泳は長距離王国を誇っているが、高石の自由型短距離につゞいては鶴田の平泳。長距離の発達はおくれていた。
ターザンのワイズミュラーが全盛のころ、オリムピックの帰途だかに、日本へ来たことがあった。
前へ
次へ
全14ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング