安吾巷談
世界新記録病
坂口安吾
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)河馬《かば》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千五百|米《メートル》の
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョコ/\と
−−
スポーツというものは自らたのしむ境地で、それ自体に好戦的な要素はないものだ。国際競技とか、対校試合とかいうのも、世界の現状が国家単位であったり、チームが学校に属しているからの便宜的な区分で、スポーツは本来、個人的なもの(チームをも個とみて)である。現状に於てもスポーツの最高エベントは国際試合に限るわけでなく、ウインブルトンの庭球、又はプロ・ボクシングの世界選手権試合に於けるが如く、人種、国家の如何をとわず、最高エベントが個人的に争われている例も少くはない。年々アメリカで行われていた千五百|米《メートル》のインドアレース(陸上)なども、オリムピックのレース以上に豪華な大レースを展開するのが例で、こういうレースの在り方は選手がプロ化する危険はあるが、スポーツ本来としては、このように個人的に争わるべき性質のものだ。
スポーツも勝負であるから、勝敗を争うのは当然であるが、それと同時に、練習の結果をためしている賭の要素が大きい。練習をつみ、その技術に深入りするほど、賭に打込む情熱も大きなものになる。偶然にまかせるルーレットの類とちがって、練習というものは合理的なものだ。いや、力というものを技術によって合理化し、ほぼ、あますところなく合理化してしまうのが、訓練、又は、練習というものなのである。もう一つ、その上に、試合に際して、相手とせりあって発する場合の力というものがある。つまり、勝負強いとか、勝負師の力があるとか云われているものが、これだ。そして、これが、賭というものなのである。
吉岡が十秒三のレコードを何度もだした。だからメトカルフとせり合って一着になる可能性があると時計から割りだしたって、どうにもならない。本当の勝負というものはタイムではなくて、相手が自分より一米出ているから、これを抜いてでる、これを力といい、レースという。吉岡は百米を何十歩だかで走り、そのきまった歩数で走る時によいレコードがでるというようなことを言っていたが、そのような独走的な、又、無抵抗なものは、単に机上の算数で
次へ
全14ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング