ある。
この先生はいくらかのアルコールがまわって心浮き浮きしているらしいが、言葉も足腰もシッカリして、酔態は見られない。この先生の出現は、時に深夜一時、終電もなくなり、さすがの新宿駅前も、まさに人影がとだえようとしている時刻だ。
「実はね。私は新宿ははじめてなんです。かねて聞き及ぶ新宿で飲んでみようと思いましてね。そんなワケで、この土地にナジミの飲み屋がないでしょう。お勘定が千円なんですが、私は現金は八百円しか持ち合せがない。しかし今日集金した三万円の小切手があるから、これでツリをくれと云ったら、ツリはやれん、小切手はこまる、現金でなくちゃいかんと云うんです。冗談じゃない。この小切手は横線じゃない、銀行さえ開いてりゃ、誰がいつでも現金に換えられる小切手でさアね。ほら、ごらんなさい」
男は三万円の小切手をとりだしてみせた。私は小切手のことは皆目知らないが、不渡りかどうか、交番で鑑定のつく品物ではなさそうだ。しかし伊達男は苦味走った笑みをたたえて悠々たるもの。
「小切手じゃアどうしてもいけないてんだから弱りましたよ。持ち合せが八百円しかないんだから、二百円貸しとけ、と言ったら、それもい
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