を誇って世界三大強国などゝ言っていたが、その生活水準の低さというものは論外で、フィリッピン以上のものではなかった。
 これは驚くべき事実であるが、日本の歴代の内閣が、国民の生活水準を高める、ということを政策にかかげたことがない。ヒットラーでも、労働者に鉄筋コンクリートの住宅を、自動車を、と約束したが、日本の為政家は耐乏、勤倹、質実剛健、を説教することをもって国民への任務と考えていたようである。
 食うものも食わずに戦備をととのえて、目的がどこにあるのか見当もつかないけれども、こういう指導理念の混乱は、日本共産党にもある。正しいプロレタリヤであるには、貧乏な生活をしなければならぬ。一昔前のプロレタリヤ理念は明確にそうであり、貧乏を誇りにさえしていた。生活水準を高めるよりも、低めるために努力しているようでさえあった。そして高度の娯楽はブルジョア的であるとし、工場や農村の窮乏や、娯楽も文化もない方向へ、人々をひきむけることを目的としていたようであった。
 これは今日では払拭されたようであるが、洗煉されたものよりも粗野の方へ、デリケートなものよりも無神経の方へ生活形態の方向を推し進めようとしていることは争えない。
 それは軍部が言論同様、芸術にも統制を加えて、彼らに理解しうる限度をもって文化の水準とし、彼らに理解し得ない高さのものを欧米的だとしたことゝ全く同一である。
 野坂中尉は一月二十五日の質問演説に於て、自衛権の裏に軍事協定があること、外国資本による日本経済の買辨化を暴露して出たが、コミンフォルムの野坂批判によって示されたその歴史の大きさを見れば、共産党が日本の政権を握った場合に生じるものが、吉田内閣に於ける軍事協定や買辨化の比ではないことが分る。
 なぜなら、日本共産党はコミンフォルムの完全なカイライ、手先にすぎないからで、その圧力を拒否する場合に起るものは、武力侵略であり、いずれにせよ、コミンフォルムの意のままに自己批判[#「自己批判」に傍点]せざるを得ない宿命にあるからである。
 日本の軍部のように、八紘一宇と国民儀礼のような神話時代の文化しか持ち合せがなく、自分の貧乏やマイナスを占領地帯へ分ち与えるようなヤリ方では、占領された人たちが大迷惑であるが、ソビエトの場合が、又、そうである。
 ともかく欧米諸国に於ては、植民地を独立させる方向へ傾きつつある。彼らにとっ
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