ては侵略戦争史というものが長い歴史を終って、別の方向へ向こうとしている。それは文化と野性の長い争いの結果到達した結論でもあるのである。
ところが、ソビエトの場合はアベコベだ。日本と同じように、領土をひろげる必要があるのである。日本と同じように彼も亦《また》貧乏であり、自分の国だけでは食物も不足、開発の設備も不足、工場も不足だからだ。
同じ占領されるにしても、こういう国に占領されるのは慶賀すべきことではない。困ったことにはジンギスカンや金のように、文化の低い国が戦争では強いようなことが大いに有りうるからガッカリする。ロシヤも原子バクダンは造ったが、文化や知性や生活の水準は日本と変りのない国だ。ヨーロッパの田舎であり、農奴から労働者へ一ケタ上ったばかりの国である。
日本人の生活水準の向上ということは、いかなる独裁政党が勝利を占め、議会政治を否定し、特権階級を亡し、民族独立して強力な独裁政治をほどこしても、どうにもならないものだ。問題は一億ちかい人口が狭小な耕作面積と乏しい天然資源しか持ち合せないという特殊な国情にあって、誰がやっても外国貿易に活路を見出す以外には仕方がない。
吉田首相をアッサリ保守反動ときめつけるけれども、彼の直截簡明な判断には見るべきところがあり、正月ごろ発表した談話に、官吏を減らせば国民の負担が軽減する。まず官吏を減らすのが第一だ、というのは、共産党が天下をとったにしても、日本の国情としては、そうせざるを得ないのが当り前だ。軍人だの官公吏というもの、又事務系統を減らして、生産面の各部門を拡充し、それも主として貿易の生産面にふりむける以外に生活水準を高める実質的な方法はあり得ないはずだ。
それとも共産党の場合には、彼らが天下をとったアカツキ、共産諸国の協力や援助をうけうるものだと予定しているとしたら、甘いというか、悲劇的な頭の悪さであろう。人のフンドシで相撲をとるのは日本古来の特技でもあった。戦国時代の興亡は主として人のフンドシを当にして行われ、昭和の軍部はドイツのフンドシを当にして失敗してしまった。
今日、右翼再興の気運も、概ね人のフンドシを当にしての算用から割りだされた狡猾で頭の悪い田吾作論理の発展のようであるが、こういう手合いの軽率で虫のよすぎる胸算用は蒙昧きわまり、悲劇そのものでもあろう。
要するに、左右いずれの天下となっても、我
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