で、どこかの社長が社の理想を長々と述べたに対して、どうぞ、その通りにやって下さい、と答えたそうだが、その程度の有りふれたアイロニイは劣等生でも言えることだ。
 現に側近のバカモノが戦前に劣らぬ偶像崇拝的お祭り騒ぎにとりかかり、彼がそれに殆ど抵抗を示していないところを見れば、彼の聡明さや軍部への抵抗は、側近のつくりごとで、彼は善良な人間ではあるが、聡明の人ではないと判断してもよかろうと思う。
 再び、集団的な国民発狂が近づいているのである。一方にナホトカから祖国へ敵前上陸する集団発狂者があり、コミンフォルムの批判にシッポを垂れて色を失う集団発狂者がある。この集団発狂は、彼の力では、どうにもならない。
 しかし一方に、彼を再び偶像に仕立てて、国民儀礼や八紘一宇の再生産にのりだしそうな集団発狂が津々浦々に発生しかけているのである。この集団発狂は、彼個人の意志によって、未然に防ぎうる性質のものだ。すべて病気の治療というものは、初期のうちに行わなければ手おくれとなる。日本の都会があらかた焼野原になり、原子バクダンが落されてからでは、その善意は尊重すべきであるにしても、手おくれの難はまぬがれない。今のうちなら右翼ファッショの再興を、彼個人の意志によって防ぎうるのだ。彼がよりつつましく人間になりきることによって。それを為しとげる気配もないから、彼は明かに聡明ではない。むしろ側近の計るがままに、かかる危険を助成している有様であるから、なさけない。忠勇な国民を多く殺して、自分のからだが張りさける思いである、という、あの文章は人が作ってくれたものであるにしても、あれを読み、あれを叫んだ時の彼の涙は、彼の本心であり、善意そのものであったはずだ。彼はすでに、それを忘れたのであろうか。
 私は祖国を愛していた。だから、祖国の敗戦を見るのは切なかったが、しかし、祖国が敗れずに軍部の勢威がつづき、国民儀礼や八紘一宇に縛られては、これ又、やりきれるものではない。私はこの戦争の最後の戦場で、たぶん死ぬだろうと覚悟をきめていたから、諦めのよい弥次馬であり、徹底的な戦争見物人にすぎなかったが、正直なところ、日本が負けて軍人と、国民儀礼と、八紘一宇が消えてなくなる方が、拙者の死んだあとの日本は、かえって良くなると信じていました。もっと正直に云えば、日本の軍人に勝たれては助からないと思っていました。国民儀礼
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング