貧困さが思いやられて哀れである。これはナホトカ組が祖国への敵前上陸を教育されているのと揆《き》を一にする絶対主義の教育であり、神がかりの教育でもある。教育された皇太子の罪ではない。この敗戦にこりもせず、まだこんな教育をする連中の度しがたい知性の低さが問題だ。
 日本の今日の悲劇は、いわば天皇制のもたらした罪であるが、しかし、天皇制には罪があっても、天皇には罪がない。天皇制は彼が選んだものではなく、ただそのような偶像に教育されただけであった。
 しかし、彼はともかく無条件降伏の断を下した。朕《ちん》の身はどのようになろうとも、と彼は叫んでいるではないか。そこに溢れている善意は尊い。天皇ほどではないにしても、偶像的に育てられた旧家の子供はたくさんいる。しかし、たとえ我が身はどうなろうとも、という善意をもって没落のシメククリをつけうる善良な人間がタクサンいるとは思われない。
 恐らくヒロヒト天皇という偶像が、天皇の名に於て自分の意志を通したのは、この時が一度であったかも知れないが、これをもっと早い時期に主張するだけの決断と勇気があれば、彼は善良な人間であると同時に、さらに聡明な、と附け加えうる人間であったであろう。
 彼は人間を宣言したし、その側近のバカモノが性こりもなく造りだした天皇服という珍な制服も、近ごろは着ることがないようである。しかしながら、津々浦々を大行列でねり歩いているところなどは性こりもない話で、これを迎える群集も狂気の沙汰だ。
 こういう国民の狂気の沙汰は、国民も内省すべきであるが、しかし、それ以上に天皇自身が内省しなくてはならない。天皇の名に於て、数百万の人々が戦歿しているではないか。彼が偶像に仕立てられた狂気の沙汰が、それをもたらしたのである。
 降伏に当って大いなる善意を示し、人間を宣言した彼は、まずかかる国民の狂気の沙汰を悲しみ、抵抗するところから出発するのが当然だ。
「私は天皇になる」などゝ、敗戦の悲劇もさとらず、身の毛のよだつようなことを云う皇太子に、拙かりし過去のわが身、天皇の虚名を考えて、誰よりも多く身の毛をよだててくれるのが、父親たる天皇自身でなければならないだろう。
 巷間伝うるところによれば、天皇は聡明であり、軍部に対しても、釘をさしたというが、最後の断を除いては、釘をさした効果らしいものは全然見当らないではないか。去年だかの旅行先
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