る。
 ニンシンぐらい、何でもない。この結婚が不適当と分ったら、ニンシンぐらいにこだわらず、結婚をとりやめるのを理性といい、そこに進歩もあるのである。ニンシンにひきずられて、不適当と知りながら結婚するなどゝは、新派悲劇以前で、ヨタモノだったら、女をニンシンさせて抑えつけて、ゆすったりするが、理性ある人間の社会では、こんな悲劇はもう存在しない。ニンシンにひきずられて不適当な結婚をするよりも、私生児をかかえて不適当な結婚を避ける方が、どれぐらい理にかなっているか知れない。
 だいたい女が不適当な結婚と知りながらニンシンにひきずられて結婚するのは、女に独立の生活が出来ないからで、男と結婚しなければ生きられず、又、私生児を抱えては他の男と結婚するチャンスもない。そういう場合の悲劇だ。
 天光光氏の場合には、あてはまらない。もし私生児を抱えて結婚しないことが不都合であるとすれば、政治的な意味に於てで、選挙対策として不都合だというに尽きるであろう。
 生活の手段としての結婚はほゞ絶対的なものであるが、選挙対策としてならば、結婚は必ずしも絶対的のものではない。
 堤氏の言う如く、この結婚はまちがって
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