だ。
けれども多治比島の死んだころから、いくらかコマ人が日の目を見るようなことになったようだ。外交的にもシラギ一色というものからそうでないものへと転じ、聖徳太子発案の直接支那大陸の文物と結んで中央政府を確立する政治の方法へと転じ、それを次第に強力に実行するようになった。
そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ系だのコマ系だのというものは、すべて影を没したかに見えた。しかし実は歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下へもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
多くのシラギ人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後三年目に若光がコマ王姓をたまわり、十五年後に七ヶ国のコマ人一千七百九十九人が武蔵のコマ郡へ移された、というようなことは、シラギとコマが歴史の地下へもぐったうちでも実はさして重要ではない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して表面に現れない。むしろ表面に現れている末端のモグラを手がかりにしてもっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることができるのである。
すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のこのころから地下にくぐったことが分るが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起して再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていた。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ。
しかし、コマ村だけはいつまでも蝶にならなかった。すくなくとも頼朝が鎌倉幕府を定めるころまでは、コマ家は一族重臣のみと血族結婚していたのである。
コマ家の系図は次のようなことを語っている。
「豊純。仁治三年三月四日歿。
当家はこれまでコマから従えてきた一族重臣のみと縁組してきたが深いシサイがあって駿河の岩木僧都道暁の女を室とした。これで源家の縁者となったから根篠の紋を用いる」
深いシサイがあって、というのはどんな事だか分らないが、とにかく源家と結婚しなければ家を保ちがたいような事情にせまられてのことだろうとは想像できる。だが、それにしても隣りの飯能や武蔵の国
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