安吾の新日本地理
高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)飯能《ハンノウ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)埼玉県入間郡|高麗《コマ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コ[#「コ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)グルリ/\
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 今日では埼玉県入間郡|高麗《コマ》村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能《ハンノウ》行きで終点まで行き、吾野《アガノ》行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗《コマ》です。高麗村の北側背面は正丸峠を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入間川から荒川となり(つまり高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野|不忍池《しのばずのいけ》まで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。
 続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総《かずさ》、下総、常陸《ひたち》、下野《しもつけ》の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
 この高麗《コマ》は新羅《シラギ》滅亡後朝鮮の主権を握った高麗《コウライ》ではなくて、高句麗《コクリ》をさすものである。
 高句麗は扶余《フヨ》族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済《クダラ》と新羅《シラギ》があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王から伝えられたと云われているのである。
 ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して
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