も相わからない。
 ただ長子家重が家をついだが、彼の死が天平二十年(西暦七四八年)であるから、若光の死がその前であることだけは確かだが、若光が王姓をもらったのが大宝三年(七〇三年)七ヶ国のコマ人がコマ郡へ移住したのが霊亀二年(七一六年)。つまり若光は七一六年から七四八年にわたるコマ郡での生活中に、その三十二ヶ年間のどの年かに死んだのだろう。そして王姓をもらってからコマ郡移住までの十三年間にはどこに住んでいたのかということも相わからんのである。
 コマ王というのがもう一系統あって、これも武蔵のコマ郡に住んでいたと伝えられている。コマ王好台七世の孫延興王の後で、背奈《セナ》氏を称したという。天智のとき来朝し、福徳の代にコマ郡に住んだが、その孫の福信は少年時代に伯父行文につれられて奈良の都へのぼり聖武から桓武に至る六朝に仕えたそうだ。伯父行文はなかなか味な詩人である。しかし福徳の系統は史書にもコマ氏系図にも現れていない。そしてその後もわからない。
 これはコマ村には関係ないが、隣の飯能に最も関係深い豪族が丹治氏。宣化天皇の子孫多治比古王の子が多治比島。その子孫が武蔵の守となって後に飯能に土着し、今は中山氏を称している。この子孫の分派にもコマ氏があるが、コマ村のコマ氏とは関係がない。
 丹治氏の祖、多治比島は持統四年(西紀六九〇年)に右大臣となり、文武四年(西紀七〇〇年)に左大臣となり、翌年死んだ。この大臣の出現モーローとして煙の如くであるが、彼の執政時代は藤原鎌足歿後、石上《いそのかみ》麻呂や藤原不比等らが現れるまでの臣下の大臣の空白時代に当っていて、彼が右大臣の時も左大臣の時も臣下唯一の大臣、最高の重臣だった。
 彼の執政中はその前からひきつづいてシラギと交渉深かったときで、多くのシラギ人を関東諸地へ移住せしめてもいる。
 若光が王姓をもらいコマ王を称したのは島の歿後二年目のことで、その前年に持統帝の崩御もあった。
 コマ村と飯能とはコマ峠を一ツ越しただけの隣りであるし、丹治氏の子孫にもコマ氏があるぐらいだから、多治比島もコマ人を祖先にする人かと一応考えられるが、執政中の出来事を見ると、むしろシラギ系の頭目のようである。むろん政治には色々の裏があり綾があるから、表面の史実をウノミにすれば裏面の真相は判らない。政治というものは、現代史の裏面すら一般の現代人にはわからないの
前へ 次へ
全24ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング