おかげで高麗川の河原を橋をさがして、ブラリブラリと歩いたが(橋を探して河原をブラリブラリというのは奇妙な道の迷い方だが、そこがコマ村だから仕方がない)だがコマ川は実に流れの美しい川だ。深山幽谷ならともかく、山から平地に出がかったところに、こんなにキレイな流れを見たのは生れてこのかた始めてだ。河床にしきつめた小石の粒々がみんな美しいのだが、透きとおるような流れの清らかさのせいもある。グルリ/\とコマ村中を廻転また廻転している流れであるが、どこで見ても冴えた清らかな流れには変りがない。
 背後にひかえる正丸峠と云っても、秩父の山々の末端に当る低山であるし、側面から前面にまわるコマ峠の峰つゞきも百|米《メートル》に足らないような連丘にすぎない。その連丘にはさまれた小盆地をコマ川が精一パイ蛇行している。実に変テツもない山近い農村風景。すべては平凡な風景だが、流れに沿うてかなりの農家がありながら、あまりにも美しく冴えたコマ川の流れである。
 ようやくコマ神社に辿りつく。目下獅子舞いは山上の昔の社殿跡に登っているという。ただちに山上へ急ぐ。この山は自然の小丘を利用して円形にけずって古墳に用いたものらしく、この山が墳墓だという伝えは昔からあったもののようだ。もっとも、コマ氏系図には
「屍体を城外に埋め、また神国の例によって霊廟を御殿の後山にたてた」
 とあって、城だの城内域外が見当のつけようもないようだが、この系図はこの先の全文がチョン切られているのであるから、この域外に埋めた屍体とは若光らしいと想像されるだけで、若光と断定できるようにはなっていない。また若光がコマ家の第一祖だということもチョン切られた系図からは判定はできない。その長子の家重から系図がはじまるが、家重がコマ家の第二祖だというような番号も系図には示されていないのである。若光の先にも誰かがいたかも知れない。
 コマ王若光とは続日本紀大宝三年四月の条に、
「従五位高麗若光に王姓を与えた」
 とあるだけで、彼が武蔵のコマ郡へ移住したことも、その統率者が若光であったことも、他に記載したものはない。ただコマ家の系図にあるだけだが、それも前文がチョン切れていて、残った部分から判じられるのは、今も述べたように、城外へ埋められた屍体の主は若光らしいが、若光以前のことはともかく全然相わからん、ということである。そして若光王の歿年
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