の誰かでなしにいきなり駿河の某氏と婚姻しているのは注目すべきことで、このへんに現代の常識と異るものが存在しているのである。つまり当時に於ては源平だの何々系というものが全国的に横のツナガリがまだ残っており系譜的にも辿ることができた。それは県や郡という地域を超越していたのだ。しかるに長い戦国時代を経て藩制というものによって分割統一されて平和が来たときに、日本人は改めて藩民となり、祖神も源平も失って藩祖だけを持つようになった。現代日本はなお藩を脱しきれぬ精神状態だが、往昔はそうではなかった。
そしてそれから二代後に、火事で家宝や系図の類を焼いてしまったのである。
それから四代後の多門房行高の時には、
「死に臨んで遺言するが、わが家は修験であるから、何事があっても軍事にたずさわってはならぬ」
という堅い戒めを残した。以後の子孫がこの遺言をまもり、諸家から招請をうけても先祖の遺言だの、病気だのと称してどうしても動かなかったので、無事今日までコマ神社を守ることができたのである。まことに可憐な系図であった。
多門房などと称するのは先祖の一人が役《えん》の行者を信仰して修験道に入り、その後代々信仰がつづいたからで、コマの子孫が山岳宗教と結ぶのは教義をはなれて血のツナガリがあったからであろう。この民族の大部落や統治国であったと思われるところには、概ね三山信仰を見ることができる。その三山の中心に居住やミヤコを定めているのである。
コマ村は後の子孫が山伏になったのだから、コマ村本来の三山信仰がなく、したがって三山もないようだ。しかし日和田山という特にさしたる美も威厳もない低山が一ツ特別あつかいにされているようだ、すると古墳の山などと結んで昔は三山があったのかも知れない。大和のウネビ、耳成、天の香具山の三山も見栄えのしない低山だ。だが、三山にかこまれた飛鳥古京は小ヂンマリと平々凡々な小さな盆地ながらも累々たる大古墳群にかこまれ、中央政権を争った栄枯盛衰の跡は遺憾なく残っている。飛鳥古京にくらべればコマ村は更に更に小さくて平凡で奇も変もないが、いかに平々凡々の小天地にも栄枯盛衰や血なまぐさい興亡はあって然るべく、概ね避け難いものだ。
コマ村にも多少の興亡はあったようだが、概ね小ヂンマリと無事今日に残っているらしい。その原因の一ツは、コマ村だけは始めから地下に没せずに表向きコマ村で
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