るほどであると云って、ヒダ人が神聖なる霊地とする泉をトコトンまでほめあげた。
 天武帝が筑摩の温泉へ行宮をつくろうとしたのも、シナノ側にもある神聖なる霊泉をほめたてて敵を喜ばせて敵にとりいるコンタンであったかも知れません。
 養老三年にヒダの位山のイチイの木で笏をつくることを故実ときめたのも、ヒダを喜ばせてヒダにとりいるコンタンらしい。
 しかし、それから二年後には信濃から諏訪を分離して、ヒダとスワの二国を合せてミノの按察使の支配下においた。その時まではヒダには国守を送った記事は一度もなくて、養老五年に至って、ヒダとスワの二ツを、一まとめにしてミノの按察使の支配下においた。そして国守は送っておりません。甚しい特別扱いですが、それでも一歩前進して、とにかく、ヒダにカントク者らしき者をきめ、ヒダの支配者たる形式に一歩ちかづいたものと見られましょう。敵の霊泉をほめたたえた計略がだんだん図に当ってきたのでしょうかナ。
 次の聖武天皇の時代には、ミノの不破頓宮で新羅楽とヒダ楽をやらせたという。この不破頓宮は元正行幸のタドに近い不破の関ではない筈です。これはワサミかワサミに近い実際の前線指揮処だっ
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