由がなくなったか、帝都の方で群蠅の帰還助力を必要とする何事かが起ったのかも知れない。
 それから四十年ほどの間に斉明、天智、弘文、天武、持統とすぎて次の文武天皇の大宝二年(西暦七〇二年)に美濃と木曾の間に新しく道をつくりました。それから十二年後にも美濃と信濃の境の道が険阻だからと之を廃して木曾路を新設しております。十二年前の木曾路が完成したのか、それを廃して更に新道をつくったのか知れませんが、以上から結論せられる重大なことは、
「古い時代の方が御岳、乗鞍という三千余メートルの高山にはさまれた難険の峠を通っており、次第に海岸側へ、木曾川ぞいの道がひらけている。古代交通の舟行の概念とは逆である」
 という一事です。つまり当時の古い交通路は現代の日本人にも困難なアルプス越えであった。ところが、御岳、乗鞍の尾根つづきの穂高、槍、立山、がそれと同じ以前からさかんに里人に崇敬登山せられ、乗鞍を中心にして南方御岳との間に巨坂《オオサカ》の峠があって、北方の穂高との間にはアワ峠が古くから交通されていたようだ。
 ヒダの一の宮を水無《ミナシ》神社という。一の宮だが現社格は近代まで県社ぐらいの低いものだっ
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