皇の十三年二月に使をつかわして畿内に遷都の地をさがさせたが(この使者の主席は広瀬王です)同じ日、三野《ミノ》王らを信濃につかわして地形をしらべさせた。書紀の文はそれを評して、
「マサニコノ地二都ヲツクラムト欲スカ」
とありますよ。信濃へ遷都のツモリならんかと時の人は疑ったのでしょう。三野王は四月に戻ってきて信濃の図を奉ったが、翌年十月にも使をだして信濃に行宮《あんぐう》をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書いています。
ところが、信濃遷都も行幸も実行されなかった。信濃へ遷都とか行幸の問題がなぜ起ったかというと、大化四年にもエミシ退治のため信濃に要塞をかまえるようなことをやってるから、そういう必要があってのことでしょう。天武天皇は「帝都はいくつも必要である」と言明した記事が見えてます。これだけなら、別に変でもないが、それから三十三年後に妙テコリンの事が起った。
元正天皇が美濃に行宮をつくって行幸し、数日間タギ郡タド山の美泉というのをのんで帰って、
「朕《ちん》はミノのタド山の美泉を連用して参ったが、顔と手はスベるようになる、痛みはとまる、白髪は
前へ
次へ
全58ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング