、憲法をつくり、十二階を定め、七大寺をたて、仏典を講じ、今日と同じように文字とともに生活する文化生活が起ったのである。色々雑多な記録がおびただしく在ったはずだ。今日では主として寺院関係の極めて少数のものだけが、引用されたりなんかして、どうやら残っていますね。しかし、ある種のものが完璧に伝わらないね。
 聖徳太子と馬子が協力して、天皇記、国記、各氏族の本記というものを録した由ですね。文字のあるところ、必ずそのような記録があるべき性質のものだ。それが完璧に残っていませんね。大極殿で入鹿《いるか》が殺され、蝦夷《えみし》がわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄《なかのおおえ》に奉ったという。
 蘇我氏の亡びるとともに天皇家や日本の豪族の系図や歴史を書いたものがみんな一緒に亡びたのかね。そういう記録が一式揃って蘇我邸に在ったというのは分るが、蘇我邸にだけしかなかったということはちょッと考えられないことだね。文字の使用者が聖徳太子と馬子に限られていたという蒙昧な時代ではなかったはずだ。それらの記録は蝦夷とともに焼けた。ま
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