遊興の席が賑うのは当然で、遊女屋をしめだしたのは今の話ではないのである。生産するのも、学問するのも、自分ではない。自分はブローカーであり、素人下宿である。そういうような表情がありますね。なんしろ、これだけの都会で、東北の中心で、三百年も大藩の城下でありながら、市当局でヘンサンした市史というものを持たないのだ。パンフレットのような薄ッペラなものがあるだけさ。お膝元に東北大学という官立の総合大学があって、市史のヘンサンがないのだから、気風の一斑を知るべきだ。つまり学問は自分がやるものではなくて、自分は素人下宿をやろうというわけさ。市史? そんなものが、いるもんか。政宗公は日本一の人物だ。瑞巌寺は日本一の桃山建築だ。松島は昔からの日本三景の親玉だ。それでタクサンでゴザリスデゴザリスでござりすよ。
戦火でやける前の仙台の街は知らないが、戦後の仙台は新しい大通りを新設し、現在は工事中で汚いけれども、相当な明るい街に復興しつつある。仙台には火事が多く、強風の吹く季節の風の方向も一定していて、防火のための大通りだということだ。
私は東京都が、戦災直後、終戦直後になぜ年来の都市計画を実施しなかったか、理解に苦しんでいるのである。あれこそは絶好の機会だね。戦争だろうと地震だろうと、なんでも利用できるものは利用することさ。すべてその機を知らねばならぬ。その道の専門家は機を見て為すべき計画は常に胸中になければならないね。それが専門家というものさ。戦争の焼跡を利用して、都市計画を実施し、大道路を新設したり、工場地帯、緑地帯、住宅地帯を区劃する。焼けなければそう完全に急速に行うべからざる工事ができたではないか。戦争で焼かれたマイナスを、これで幾分のプラスにしうる。男にだまされて貞操を奪われても、その教訓を生かして同じマチガイをくり返さぬ用に立てれば、それもプラスさ。地震でつぶれたり焼かれたりしても、再び同じような焼けたり潰れたりする家を立てて平気な精神は賀すべきではないですよ。こりることを知らねばならぬ。それにこりて再び同じ愚をくり返さぬという役に立てることができれば、禍は変じて一つのプラスです。当り前のことじゃないかね。実に当り前すぎるじゃないか。一般庶民の生活や精神は惰性的でこりることを知らなくとも、政治家とかその道の専門家はこりることを知らねばならぬ。禍を利用してプラスにすることを
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