って印象にのこるような唄ではない。私が感心したのは、このミッちゃんという人の唄い方だ。態度である。座敷で今までベチャクチャ喋っていた時とガラリと態度が変って、唄と戦争するような物凄い真剣な気魄がこもるのだ。これだけは見事でしたよ。イノチをこめて唄うのだ。ミジンも弛みがないね。全身に烈々気魄がはりわたっていますよ。唄には全然感動しなかったが、あの真剣な気魄には、私は思わず涙が溢れた。彼女の母も一生「さんさしぐれ」を唄って死んだんだそうだ。母ゆずりの「さんさしぐれ」を彼女も一生唄い通しているのである。仙台へ遊ぶ人は五軒茶屋でミッちゃんのすさまじい気魄のこもッた唄いッぷりだけ観賞するのを忘れなさるな。なおミッちゃんという人は芸者ではない。母の代からこの茶屋に住みついている唄い手だそうだ。座敷を一足でると、はりさけるような仙台弁で階下の帳場へ呼びかけて話をしている。これが仙台弁のききはじめだったが、全然わからないね。私も言葉が商売の文士であるし、生れは雪国の新潟で地域的には東北と通じないこともないから、仙台弁をきいても、だいたい判断できるだろうと思って旅立ったのである。とても、分らん。一言も分りません。
青葉山を降りてくるとき、お喋りしながら登ってくる十名ばかりの女学生とすれちがった。完全に一語も分らん。叫ぶ声まで、異様で、判断がつかないのである。私も自信を失って悲しかったね。文士だからねえ。言葉が商売なんだ。言葉と表情と場合とを綜合すれば、なんとか判断できるはずだと思っていたんだよ。ハッと思ってミッちゃんの言葉を書きとめておいたのを御紹介に及ぶと、
「ンだまア。ビッチラ、ビッチラ……」
あとは書きとめることもできない。意味は今もって分りません。全然一語も分らないのだから、一ツや二ツの言葉の意味をきいてみる気持にはなりませんよ。案内役の井上君は東北大学の出身、二年半仙台にいたのだから、なんとか判断はつくようだが、通訳がつとまるほどは分らないのである。ゴザリスデゴザリス、というのは分った。ゴザイマス、という意味のゴザリス、一ツだけでは敬意が足らないという気持で、もう一ツ足してゴザリスデゴザリス。敬語の発生は尊敬の念からだけではないね。もう一ツ、計略的な下心もありますね。言い訳。言葉だけで間に合そうという下心。とにかくゴザリスデゴザリス的な言葉は、時によって、きく人を悲しく
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