たのは支倉渡航の方ではなくて、そのモミケシ、後始末の方なのさ。彼の生涯はいつも後の始末に必死なのだ。いつも気のつくのが手おくれだから、仕方がなかったという彼の悲しい運命なのである。
支倉一行が舟出したという月の浦は牡鹿半島の西海岸にあるね。ちょうど自動車がその上の山道を走っているとき故障を起して四十分も動かなくなったので、自然に舟出の跡を見物しましたよ。ひどくヘンピなところだが、ここから舟出したということは、要するに、貿易をはじめたらここを長崎式の指定港にするツモリだったのだろうね。ヘンピな半島を選んだのは、やっぱり彼の本心が切支丹を好んでおらず、それが都に近づくことを敬遠したせいではないかね。
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名物にうまい物なし、で、伊達家時代から名題のうまい物などを探す方がムリではあるが、まったく何もないね。
「さんさしぐれ」という唄が天正頃から仙台にはやって残った名物だそうだ。しかし、仙台生れの唄ではないようだ。まったく上方調である。上方の方へ出陣した兵隊が、当時の都の唄を自分流に覚えて帰って流行したのだろうという話である。歌詞は男色をよみこんだものだという説をきいたが、なるほど兵隊から流行したのだからそうかも知れんが、私は歌詞を多く知らないから、なんとも云えない。しかし「さんさしぐれか茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ショウガイナ」というのは男色的でもあるかも知れぬが、女色とみて不適当ではないし、その方に見るのがムリのない見方ではないかね。もっとも、ほかの歌詞については私には知識がない。
三代目の綱宗が例の吉原の遊女高尾事件を起して隠居謹慎し、その時以来、仙台から遊女屋を追放して塩竈へうつしたのだそうだ。ムダなことをしたものさ。男の子は往復に十里歩くムダがふえただけである。藩政時代には料理屋も市内におかなかったそうだ。そこで料理屋は町境いの木戸から外にズラッと並んでいたそうだ。元が五軒だったので、五軒茶屋と云ったそうだが、その一軒が今も残って五軒茶屋を名のっている。私はそこへ案内された。なぜなら、そこに仙台一の「さんさしぐれ」の唄い手がいるからである。
私が仙台で一番印象に残ったのは、この、「さんさしぐれ」の唄い手のミッちゃんという人である。もう四十いくつだそうだ。「さんさしぐれ」という唄は唄い方がむずかしいばかりで、どんな名人が唄った
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