に、而して真実よりも遥かに真実ではないかと思はれる深い根強さの底から行動を起してゐるのに驚嘆させられる。ゴルスワージに見られるやうな細かさはないが、細かさよりも大きい動機から小説が出発してゐるので、全行動が粗く大まかに移動して行くのは止むを得まいと思ふ。又それ故、大きな構成をもつた、大きな感銘を持つた小説が作られるのであらう。尤も、ドストエフスキーの人物は時々ひどく抽象的になる。哲学の上で歩き出す。そのために、血と肉のない人間が動きまわるので目ざわりになるが、この欠点を補ふに足る素晴らしさも充分にあることは否めない。
それに、この二人は決して行動の出し吝しみをしない。元来、日本の文学ではレアリズムといふことを、ひどく狭義に解してゐないかと私は思ふ。いつたい、空想といふことを現実に対立させて考へるのは間違ひである。人間それ自らが現実である以上、現にその人間によつて生み出される空想が現実でない筈はない。空想といふものは実現しないから、空想が空想として我々愉しき喜劇役者の生活では牢固たる現実性をもつてゐるのではないか。
一つの行為には同時に無数の行為が可能であるのだから、殊に内攻した生活
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