放したことを今では悔いているのです。こんな気持であるだけに、あなたのお気持はよく分るのですが、僕の手に一度蔵した今となっては、それを手放す苦痛には堪えられるとは思われないのが本音なのです」
言いにくそうな廻りもった言葉を矢島は慌ててさえぎって、
「いえ、いえ。焼けた蔵書の十冊ぐらい今さら手もとに戻ったところで、却って切なくなるばかりです。僕はたゞ、わが家の罹災の当時をしのんでいさゝか感慨に沈んでしまったゞけなのです」
と、好意を謝して、別れをつげた。
★
その晩、矢島はタカ子にきいた。
「あの本がどうして残っていたか分ったよ。あの本のほかにも十何冊か焼け残った本があったのだ。家の焼けるまえに誰かゞそれを持ちだしているのだよ。君は本を持ちださなかったと言ったね。いったい、誰が持ちだしたのだろう。君が忘れているんじゃないか。あの時のことをしずかに思いかえしてごらん」
タカ子は失明の顔ながら、かんがえている様子であった。
「空襲警報がなって、それから、君は何をしたの?」
「あの日はもう、この地区がやかれることを直覚していたわ。そこしか残っていないのだもの。空襲
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