紫の浦の太郎兵衛であるかも知れず、玄海灘の頓兵衛であるかも知れぬ。
 とにかく、この怪物を食べてくれようと心をかため、忽ち十字架にかけられて天国へ急いだ人がある筈だが、そのとき、子孫を枕頭に集めて、爾来この怪物を食つてはならぬと遺言した太郎兵衛もあるかも知れぬが、おい、俺は今こゝにかうして死ぬけれども、この肉の甘味だけは子々孫々忘れてはならぬ。
 俺は不幸にして血をしぼるのを忘れたやうだが、お前達は忘れず血をしぼつて食ふがいゝ。夢々勇気をくぢいてはならぬ。
 かう遺言して往生を遂げた頓兵衛がゐたに相違ない。かうしてフグの胃袋に就て、肝臓に就て、又臓物の一つ/\に就て各々の訓戒を残し、自らは十字架にかゝつて果てた幾百十の頓兵衛がゐたのだ。

       中

 私はしばらく信州の奈良原といふ鉱泉で暮したことがある。信越線小諸をすぎ、田中といふ小駅で下車して、地蔵峠を越え鹿沢温泉へ赴く途中、雷に見舞はれ、密林の中へ逃げた。そこで偶然この鉱泉を見つけたのだ。海抜千百|米《メートル》、戸数十五戸の山腹の密林にある小部落で、鉱泉宿が一軒ある。
 私は雷が消えてから一応鹿沢へ赴いたが、そこが満員
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