をやらせて洋食で満腹させなければ救済できないということになるだけである。
 浮浪児とか集団ということから、彼らを無個性な一括的なものとしてうけとることがマチガイで、むしろ集団ということが彼らを最も害している。彼らをうけとる態度には、特に個性的な注意が必要である。
 長野県では、県の全寺院が二三名ずつの浮浪児を育てる里子運動が起っているというが、未開時代に僧侶が知識人の代表的なものであった時と異り、今日の僧侶は特に知識人でも教育者でもなく、むしろ時代の迂遠者であり、寄食的生活者にすぎない。浮浪児の養育を私人にまかせることも文化的なことではない。
 大予算をさいて強力な研究機関と教育施設をほどこすことが必要であろうと思う。

     家族共犯の流行

 親子強盗、一家ケンゾク集団空巣、農村はもっと派手で、近在の百姓さんで、本妻から妾にも動員を発し、さらに娘の情夫も動員して、仲良く荒し廻っていたのもあった。
 この風潮は今後もより多くあらわれることだろうと私は思う。昔は一家の中で悪意を起す誰かがあれば、誰かしら理性の抵抗を起すはずだ。今はそれがない。
 私は帝銀事件の犯人などにも、同様な家族的|掩護《えんご》があるのじゃないかと考える。たとえば五十年営々と零細な貯蓄をして老後の安穏を願っていた人とか、親ゆずりの多少の家産でともかく今日まで平和であった平凡な家庭などで、虎の子を戦火にやかれる、肉親の誰かを戦野で失う、政治を呪い世を呪う事々の呟きが次第に一家の雰囲気をつくり、性格をつくって行くのである。
 そのうちに、女学校を卒業した娘たちは、親の昔の夢想では平和な結婚生活に入るべきものを、それもかなわずダンサーなどにならざるを得なくなる。そして男と泊り歩くようになる。せっかく大学へあげ末を楽しみにしていた息子も学費がつづかずヤミ屋なぞをやって、遊興を覚える。お父さんもゴロゴロねてばっかりいて娘や息子を食い物にしないで、ゼイタクがしたかったら、自分も稼いだらどう。強盗でも人殺しでも、なんでも、いいじゃないの。どうせヤブレカブレの世の中じゃないか。
 こうして一家の雰囲気が犯罪に同化し、やがて、事もなく犯罪そのものとなって行く。戦争さえなかったなら平凡に終った筈の一家が思いもよらぬ犯罪へ傾いて行く。かかる事例は極めて自然に起りうるはずだ。
 軽率に道義のタイハイを難ずるなかれ。戦争といえばそれ一億一心、民主主義といえば、ただもう民主主義、時流のままに浮動して自ら省みる生活をもたない便乗専一の俗物に限って、道義タイハイなどと軽々しく人を難ずるのである。
 そのよって来たる惨状の根本を直視せよ。道義復興、社会復興の発想の根柢をそこに定めて、施策は誠実に厳粛でなければならぬ。
 毎日十時四十分かに品川駅へシベリヤからの引揚者がつく。マイクにニュースに、やたらとセンチな感動的情景を煽る。そして、ただ、それだけのことではないか。寛永寺の一時寮へあずける。そして、ただ、それだけではないか。やがてその誰かがパンパンとなり、親子強盗となって行く。
 引揚者や浮浪児の社会復帰に対しては、政府は大予算をさいて、正面から当らねばならぬ。ヤミ利得などを追う前に、戦争利得をトコトンまで追求して、復興に当るべきであった。これを要するに、道義のタイハイも、その発頭人は政治のむじゅん貧困と言わねばならぬ。

     青年は信頼すべし

 学生窃盗団、ダンスホール御乱行組、学生への非難の声もにぎやかである。
 この戦争の初期のころにも、兄弟たちが戦時に血を流し、工場に農村に同胞が全力をつくしているのに、学生は野球にふけり、映画見物に憂身をやつしている。学生といえば国賊のように罵られて、時局認識がないことを叩かれていたものであった。
 そのうちに学徒出陣というようなことになり、学徒挺身隊の出動となり、戦地に工場に学徒の戦果がつたえられ、昨日の国賊があべこべに救国戦士の第一線におかれて、新聞の記事は学徒の謳歌で賑うこととなった。
 あの年齢は、時代に敏感で、最も順応的なものであるから、学生の行状はこうだ。不勉強で遊んでばかりいて怪《け》しからん。そういう非難が風潮をなすに至ると、学生自身がその風潮に自分を似せて、それを合理化しようとするものだ。悪い学生はいつの時代にもいるのであるが、一部のために全部が汚名を蒙って、そのために、他の学生まで、それに似せ、それを合理化しようとする。輿論は屡々《しばしば》かかる罪を犯しがちなものである。
 特に今日のような畸型な社会生活の上では、学生というものが、畸型になるのは当然で、父兄が俸給生活者である限り、学費は十分では有り得ない。学生は父兄のヤミに依存するか、自らのヤミで自立するか、畸型化せざるを得ない筈で、一般の給料が家族の食費にすら不足の今日、学生という自足できない一団が畸型児の第一線を占めるのは当然だ。
 いったいが、日本では、家庭にも学校にも娯楽というものが殆どない。娯楽というと、家庭や学校を放れて、野放しのものとならざるを得ぬ。今のように一般生活が貧困をきわめている時に、家庭の娯楽といってもムリのようであるが、娯楽というものを家庭の日常必需品と同様、主食同様、欠くべからざるものと見る生活態度の確立が必要である。
 学校もそうだ。設備が不完全なくせに、学生を入れすぎる。学問と共に娯楽を与え、よき娯楽設備をもたねばならぬ。スポーツを選手でなく学生一般のものとし、映画や劇場やダンスホールぐらい備えた学生ホールが常備されるべきであろう。
 男女共学からくる恋愛の如きものを怖れる必要はない。時に間違いは有りがちでも、恋愛そのものが間違いではないのであるから、青年特有の正義心を信頼し、夢多き年代の特質を生かしてやる思いやりが欲しいものだ。

     応援団とダラク書生

 一部の素行よからぬ学生のため、大学内に自治運動が起りつつある由であるが、自治がどのような方法で行われるのか、自治運動が学生の私設憲兵化をまねかなければ幸いである。
 先日散歩していたら、ラジオ屋の人だかりにぶつかって、私も五分ばかり慶明戦の応援団の熱狂ぶりをきいた。昔ながらのものである。こういう応援団が学生らしい学生で、応援団長とか幹事とかが特に健全なる学生なのかも知れないが、自治運動の親分がこの種の連中だとすると、私は素行よからぬ学生に同情したくなるのである。
 だいたい応援団の雰囲気というものは、教練よりも、もっと好戦的なものである。スポーツそれ自体の性格とは違っている。スポーツは喧嘩と違って、文化的なものであり、勝負はあっても、理知も節制もある娯楽であるが、応援団は喧嘩に属する性格である。ユーモアを解する精神もなければ、プレーをたのしむ精神もなく、好戦的な熱狂だけが全部である。この種の愛校心と、ファッショや右翼団体的な愛国心とは同じ偏したものだ。批判精神などミジンもない。
 私は強いて悪童に味方をしたくはないのであるが、こういう応援団の秩序の中へ参加して、キチガイめいて白雲なびくなどと声をからしている連中にくらべると、こんな仲間に加わらずに、ダンスホールへもぐりこんでいる悪童の方が、まだしも人間らしく見えるのである。
 悪童の性格には、ともかく個性とか個の自覚とか多少の自主性も見られるけれども、応援団の性格には、ファッショ時代には急進的ファッショとなって声をからし、民主時代には、とたんに民主人民となって片棒かつぐ時流のまにまに批判も反省もないデクノボーの性格しか感じられないのである。
 応援団的学生が、学生の輿論をつくって悪童を裁いたり怒鳴りつけたり学生の本分を説いたりするのが学内自治と称するものなら、私は悪童の堕落よりも、自治の堕落の方が悲しむべきことだろうと思う。
 過渡期に現れる一部分の悪現象から、徒らに旧秩序への復帰を急ぐのは危険であり、そこには進歩というものを期待することができない。
 私は、旧秩序への復帰を正理とする人々の方が不健全、畸型なファシストに見え、それにくらべれば、過渡期上の一部の悪現象は、まだしも、健全に見えるのである。そこを通して、新たなより高い生活がやがて結ばれるであろうからである。
 私は強盗学生や桃色大学生が好きではないけれども、応援団的学生の自治精神はそれ以上に嫌いである。

     慈善と献金

 元伯爵の子供が窃盗罪でつかまったら、引きとって更生させたいという志願者が殺到したそうだ。元華族らしき女人をはじめ裏長屋のオカミサンに至るまで、いずれも御婦人方であった。
 華族崇拝だの封建性だのと目クジラだてて民主ヅラをひけらかすのは当らない。英雄崇拝や美女美男崇拝はどこにもあることだ。阿部定さんの出所をまって結婚したいと申しこんだ勇士はたくさんあった筈であるし、伯爵令嬢でなくとも、美少女の万引犯に引取って更生させたいと申込みたい勇士は少くない筈である。内々はそう思っても、やらないだけのことで、今まで女はメッタにこんなことをやらなかったが、近ごろは、怖れげもなく、そういうことをやる。
 羞恥心の喪失ということではないようだ。元々羞恥してはおらぬのである。なぜなら、元伯爵の子供であり、美少年であるから、という秘密には当の本人が気付いていない。当人はただ可哀そうだと思っており、よいことをしている気持でいるらしい。
 つまり、無学無智なのである。そして、現在の日本は、かかる無智なるものに生活力があり、慈善を施す能力が具わったという証拠でもあり、家柄とか教養などというものが生活力を失いつつある証拠でもあるのである。深き教養とか高き家柄というものは、無智無学の生活選手の慈善の対象と化しつつあるのである。
 慈善の性格というものには、多かれ少かれ、かかる無智のバカラシサや、ギマン矛盾がふくまれているものだ。そのバカラシサが、このように明白なものはまだ罪がないので、そのバカラシサが如何に多く現実に横行し、自覚されずにいるか判らない。
 政治献金は利益の取引ではなくて、単なる献金だという。つまり慈善である。利益の取引は罪を構成するかも知れぬが、献金や慈善は罪を構成しない。その代り、人間の生活を、無学無智、白痴の世界へひきずりこんでいるものだ。神を怖れざる仕業である。
 私は阿部定さんに結婚を申込み、万引の美少女に結婚を申込む勇士の方に賞賛をおくる。それは慈善ではない。あきらかに、好色である。羞恥なき仕業であるかも知れないが世のツマハジキを怖れない勇気がいる。つまり自ら罪人たる勇気がいる。献金だの慈善などと言わずに、自ら利益の取引であることを明にしている態度なのである。
 近ごろの政治献金という慈善事業は、伯爵の倅《せがれ》を引取りに行く裏長屋のオカミサンによく似ている。無学無智、白痴たることによって罪を救われているにすぎない。
 自らの罪を知り、罪に服する勇気なくして、知識も文化も向上もあるものではない。

     太宰の死

 太宰のことに就ては、僕はあまり語りたくない。僕自身の問題として、僕の死ということは大した問題だと思っていないから、太宰の場合にしても、とりわけ自殺に就て、考える必要もないと思っている。その自殺によって、彼の文学が解明されるという性質のものでもない。自殺などがどうあろうと、元々彼の文学は傑出したものであり、現実の自殺という問題は、あってもなくとも、かまいやしない。
 文学者の自殺ということは、社会問題としては珍聞であるかも知れぬが、文学者仲間の話題としては、そうかい、太宰は死んだかい、おやおや、女と一緒かい、というだけのことだ。
 人間の思想に、どうしても死ななければならぬなどという絶体絶命のものはありはせぬ。死ななければ、生きているだけのことである。同じことだ。文学者には、書いた作品が全部であり、その死は、もう作品を書かなくなったというだけのことである。
 太宰は、その近作の中で明かに自殺しているが、それだから、現実に自殺をしなければならぬという性質のものでもない。
 私は然し太宰が気の毒だと思うのは
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング