をすて、むしろ碁の世界化をめざして呉を加え、坂田、梶原を加えて、名人戦を行うべき時代であろう。
大衆は正直なものであるから真に興味を惹かれるものにだけ、惹かれるだけの話だ。エロにまさる他の充実した興味がなければ、エロの流行も仕方がない。エロのボクメツとはムリで、他の充実した何ものかが必要なだけだ。高級にして充実した興味の対象が現れゝば、エロは自然に場末へ追いやられる。エロの禁止は逆効果を現すばかり、自然に場末へ追いやられたとき、大衆の生活は健全となっているのである。
チークダンス
チークダンスの実況写真が某紙にスッパ抜かれて、ダンスのタイハイこゝに至る、ホール業者、ダンス教師、御愛好の男女代表、ダンサー、文部省、警視庁、御歴々が御参集あって協議あらせられたとある。
この写真に見参するまで、私はもっぱらカストリなどにかゝりきっていて、チークダンスという言葉も知らなかった。一見したところ、ダンスじゃなく、やゝ交合に近接した領域のもので、女学生、女事務員とおぼしき方々がしかと男にしがみついて恍惚のていでいらせられる。さる夏の日、ウチの池で蛙のむれが交合し、恍惚と浮沈しつゝあったのを思いだしたが、あれよりも、ギゴチない。そこが人間のユエンかも知れん。
この写真を見た同じ日、友人が北斎の猥画をもって見せにきた。一しょに歌麿を五冊見せてくれたが、歌麿があたりまえの猥画にすぎないのに比べると、北斎には絵の鬼の凄味がある。人体を描いたアゲクが、そこまで描かずにいられなかった鬼気をはらんだものである。猥画ではなく、人間を描いた絵画であり、絶望感に色どられていた。
北斎は交合を描いて猥感を拒否しているが、これは作者の魂の深さと、趣味教養によるものであろう。チークダンスは、ダンスを踊って交合の低さとワイセツでしかない。蛙のそれよりも、スマートさに於てやゝ劣るところがあるだけである。
密室でやることを、人前でやってるという性質のものだ。政府はさきごろ軽犯罪法なるものをつくって、こういうことを取締る量見であるが、密室でやってることなら、人前でやっても仕方がなかろう。密室の生活がワイセツの低さでしかないせいだ。
つまり我々の多くが、男女関係というと、チークダンスのようなことにしか主点がない。夫婦関係の幅も高さもそれぐらいのものにすぎないのだ。表向きは亭主関白とオサンドンとの関係であり、裏面ではチークダンスの関係である。そして、子供ができる。それを育て愛するに動物本能の関係である。
密室だろうと表向きだろうと、犯罪は犯罪、無罪は無罪であろう。北斎は密室を描いてもワイセツの低さはなかった。趣味教養の然らしめるところである。
悪趣味や無教養というものはフンジバッて、牢屋へ投げこんでも、どうなるものでもない。チークダンス愛好家は悪趣味、無教養というだけのことであるから、その対策はフンジバルこととは別だろうと私は思う。
密室を高めなければダメなのである。
講談の世界
賭場を襲った強盗がある。十五万円と腕時計を六ツぐらいはぎとって、金モウケはこういうグアイにやるものだ、バクチなんてケチな金モウケをするな、と一場の訓辞をたれて引上げた。賭場の胴元は口惜しくてたまらず、涙をのんで訴えでて、バクチの方の御常連十四方は仲よくジュズツナギにならせられたという。泣きッ面に蜂であるが、自分たちがジュズツナギになることよりも、復讐の一念がより大きな願望であったとすれば、このへんの幸と不幸、満足と不満足、損とモウケ、心理を加味した如上の計算はまことに複雑をきわめ、正解をひきだす算式はたぶん発見できないだろう。
然し計算というものは精神の平衡状態において算出されるものであるが、賭場の一味には「口惜しまぎれに」という平衡を失した異常心理がはたらいており、だから益々計算の方途を失う。要するに、結果は、どんなにリュウインを下げてみても、後悔、つまり後悔ということは、計算法の出発点がまちがっていたという意味なのである。然し、それでも、訴えない方が利口であったという結論にはならない。心理の計算はむずかしい。
近ごろの世相は兇悪犯罪が増加しているけれども、ともかく犯罪が悪事であること、犯人が己れの悪と戦っている苦痛の心理はあるはずだ。文学に於ても、罪人がその罪と戦うことは常識であるし、一般世間の常識に於ても、罪人がその罪と争うことは当然とされているものである。
ところが江戸時代の一種の文学である筈の講談という世界には、正しい罪の解釈がない。罪の自覚に妥当な内省や計算が加えられていないのである。
殿様のお手打であるとか、新刀をもとめての辻斬であるとか、賭場荒しであるとか、仇打ちであるとか、それらのことは正常の罪の自覚とは別の場に於て物語化され、人情化されて語り伝えられているのである。
講談は今もなお語られ、そして語られるということは、大衆に支持されているということだ。支持するとは、その講談の場に於て尚大衆が生活しつゝあるということである。
ヤクザの世界は今も講談そのまゝであるが、一般大衆にも、やっぱり講談の場と通ずる底辺があるはずだ。
その歴然たるショウコには裁判がある。同じ人殺しでも、ヤクザの人殺しは、特別の観点、つまり講談の場から解釈せられて、特異なものに扱われ、多少は罪が軽いようだ。つまり裁判においてすら講談の場が、一応その正常性を認められているのである。講談の場は決して正常ではないはずである。
今日の犯罪増加の一因には、我々の日常生活に残存する講談性にも原因があろうと思う。
男女同権
さる小学校に宴会があった。女の先生方がオサンドン代りに食卓の用意をさせられ、あまつさえ酔っ払った男の先生から侮辱的言辞をあびせられた。気を悪くした一人の女先生が山川菊枝部長にこの話をつたえたから、部長は男性の横暴増長に胸をいためられて、男女同権|未《いまだ》しと怒りの一文を草せられた。くだんの小学校に於ては、酒席の内輪ごとをみだりにアバイタ曲者であると、全先生満場一致、くだんの女先生に退職勧告を決議あそばした。重ね重ねの増長傲慢に山川部長はゲキリンされて、小学校へのりこんで校長先生に厳談されたが、校長先生の答えられるには、満場一致という民主的解決であるからと仰せられ、女史のお叱りに服する気配だになかったという話である。
私たち文士仲間にも女流作家という方々があって平等に手腕をふるっていられるが、小学校の先生方にくらべると、見識が低いようだ。
なぜなら、宴会ともなれば女中代りに料理を運んで下さったり、取り分けて下さったり、オシャクして下さったり、すゝんでいろいろと下々の立居振舞をなされる。酔っ払った我々が無礼な言辞を申上げても、ゲキリンして一文を草されたという話もきかない。
私は元来、中性という新動物の発生は極力これを阻止したいと念願するほど教養の低い男であるから、山川菊枝部長の識見には理解のとゞかぬウラミがある。だから私は、御婦人というものは、宴会ともなれば、オサンドンの代りをさせられるものではなくて、すゝんでして下さる性質のものであり、又、酔っ払いの男などより教養も高く、情意もひろく寛大であるから、暴言などは許して下さるものだろう、とアベコベな風に考えていたのである。
私は帝銀事件の犯人が怖い。青酸カリをのんでバタバタ倒れる人々を冷然と見ている姿を考えると、いさゝかゾッとするのであるが、火事です、消防署へ、という電話をうけて、スト中だからダメです、とスイッチをきったという交換嬢の姿を考えると、帝銀の犯人よりも、もっと怖ろしくてもっとビリビリふるえあがってしまうのである。だから私は、満場一致女先生の退職勧告を決議したという先生方の怖れおのゝく気持にはいさゝか同情をもつのである。
馬鹿殿様観念論
京大生が共学の女学生に心中をせまって拒絶され、メッタギリに刺殺したという事件が起った。新聞紙は概ね共学による新問題として執りあげているが、所詮男女のあるところ恋愛は自然のことであり、恋愛をたゞちに不義とみる日本古来の思想が正理でない限りは、恋愛事件が共学に影響をもたらすことは有り得ない。問題は加害者の恋愛態度だ。
朝日新聞の報ずるところによると、加害者はその動機を、唯物論と観念論にまよい、救いを八重子との恋愛にもとめたが、幻滅を感じ、八重子を殺すことによって完全な救いが得られると信じた、と語っている。
これだけの報道で事件を批判するのは甚だしく不完全であるけれども、空転する観念から殺人という行動へ飛躍し、その飛躍をさらに理論づけようとする現代の観念論の不備については厳しく批判する必要があるだろうと思う。私がドストエフスキイやジイドに不満を感じる最大の点もそこであった。
現代の観念論は観念にかたよりすぎているから、飛躍を合理化せざるを得ないのであるが、恋愛から殺人へ、社会への不満から殺人へ、武力革命へというような飛躍は、合理化し得ざるものである。なぜなら、事の四周には無数の関係があり、事の上下には無限の段階が有るはずであるからだ。
現代哲学の観念論は、この無数の関係や段階を観念的に処理する原則的方法については考究するところがあるけれども、実人生においては個々の関係や段階に即物的に処理せざるを得ないもので、哲学の説くところはその原則的方法だけだ。個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ実人生の厳しさを忘却して平然たる馬鹿殿様ぶりであるから、恋愛から殺人へ、そしてそれを合理化しようとする無暴な空論を時に神聖視して怪しまない阿呆なことが横行する。古代人の奇蹟が現代の観念論の中にだけ実在しているのである。
観念論の虚しさに共産党へ走った出隆教授の飛躍にも、私はその根柢に観念論だけで育った人のもつ思索の不備を見る。恋愛から殺人への飛躍の不備と同じ不備を見るのである。
実人生への関聯、これを私流に云えば、文学との関聯、つまり個々に直面して即物的に処理せざるを得ぬ現実への厳しい目配りを没却して、無為に観念のみを弄ぶひとりよがりの学究態度というものの幼稚さをさとるべき時代であろうと私は思う。
スリと浮浪児
私の外套のポケットは内側から切られている。スリの仕業である。私はこの冬外套の内ポケットへ入れておいた金を二度スラれた。出版社から受取ったばかりの印税をみんな持って行かれ、坂口さんはマヌケだなア、わかりそうなものだがなア、などと笑ったその出版社の連中が、今では一人のこらずスリの被害をうけて、カバンをやられてフロシキ包みをブラさげて御出勤の者、腕時計をやられた者、蟇口《がまぐち》組、外套組というのもある。外套をスラれるというのは珍しい。
この五日にも、さる出版社の連中六人がやられた。社の会の帰途十時ごろ、神田駅のプラットフォームで集団スリにとりかこまれて、集団タックルの波状攻撃をうけて全滅したのである。プラットフォームにはほかに乗客もたくさんいて、このギャングどもをどうすることもできないとは、悲しい。その翌日、偶然その社へ立寄ったら、我々もついにギャングに襲われる身分に立身しまして、などとシカメッ面で力んでいたが、おかげで私の原稿料は当分支払い延期ということになり、誰が被害者だかわからない。
私の知人でスラれていない人間は先ず見当らないのであるから、東京都の住民はスラれない人の方が珍しいのかも知れない。
集団スリの一味四十二名がつかまって、手先の大部分は浮浪児だ。
そこで問題はスリという犯罪よりも浮浪児の救済処置が重大な課題となるのであるが、収容所へ送っては逃げられ、同じことを繰返しているのが現状のようである。
浮浪児は一日千円のカセギがあって、サシミやスシを食い、ウナギや洋食や支那料理で満腹しているから、収容所で特別三合の配給を与え、オヤツをだしてやってもダメだという。
今までサシミやウナギを食っていたから、特別三合配給してオヤツもやるということが変だ。そういう論拠では、結局スリ
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