ヤミ論語
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)輿論《よろん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)男女同権|未《いまだ》し
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世は道化芝居
自宅へ強盗を手引きした青年があったと思うと、人数も同じ四人組で自宅で強盗した絹香さんという二十一の娘が現れた。
トリスタン・ベルナールの作品だかに、知らないウチは勝手が分らぬ、それに見つかった時、変テコリンで困らア、というので知人のウチへ稼ぎにはいるマヌケな素人泥棒の道化芝居があった。
これも一つの心理であろう。知らないウチは確かに勝手が悪い。知人のウチは勝手がわかるが、自分のウチなら、これは気心が知れ、これぐらい心易いところはない。
元々不良少年少女の悪のはじまりは、自宅の物を盗んで小遣いにするのが型であるが、いよいよ本職にと発心して、しからば、気心知れたわが家へ、となるのは不自然ではない。
道化芝居というものは、有り得べくして、有りうべからざる珍妙のために、人々が笑ってくれて成り立つものであるが、ちかごろは、道化の題材が普通の現実になった。
エエイッ、死んでもいいや、というので、怪しきアルコールをガブリとやってオダブツとある。悲愴であるが、新派悲劇じゃなくて、道化芝居のネタである。
国会で小便をおやりになる。元大臣が天プラ御殿の主人となり、かねて気心知ったる官僚高官がヤミ天をおあがりになる。世耕情報、尺祭り、節電盗電、日本は目下、あげて道化芝居である。
帝銀事件で十二人死んだ。強盗が何人殺した。然しボロ電車が予定によってヒックリ返ったり火をだしたり、何人殺しても、こういう予定の殺人は何んでもないことになっている。愉快な殺人ルールである。
説教強盗氏が世相をガイタンされて、昔の盗人は仁義があった、とおっしゃる。盗人の仁義というイロハガルタはなかったが、これをマジメに書く新聞記者の頭がおかしい。
道化的なるものをマジメに扱い、世相に意味をもたせて強調するから煽るだけの話で、道化に仕立てる、悪事の荘厳や現実感がなくなるから、素人は魅力を失う。
昔、キリシタン退治の頃、信徒をハリツケ、火アブリにかける。堂々と刑死するから、見物人や処刑の役人まで切支丹になる者が絶えなかったが、穴つるしという珍妙な処刑を発明したら、見物人、ウンザリして、それ以来、信徒になる者がなくなった。
然し、道化的なるものを道化的に見出すためには、教養がいる。また、道化の反面にある正理を愛する信念と情熱もいる。
道化日本の第一の欠点は、教養が足りない、ということだろう。論語めかしくいうなら、自分のウチへ盗人にはいる奴が悪いのではなくて、そういうことは落語の中の熊公だけしかやらないものだと認定することの出来ない、余裕とユーモアのない時代の心が悪いのである。
帝銀事件余談
帝銀事件犯人の似顔絵の発表は無理だろう。昔さる新聞社の入社試験に、講師が一席弁じ、ひきさがってのち、講師の人相服装を問うたら、正解がなかったそうだ。
何十人に素顔をさらしたところで、何十人の印象を合計して正解のでる性質のものではなく、似て非なる架空の何者かを現実的にデッチ上げて、それに限定を加えるだけ、事態をアイマイにしているようなものだ。レッキとした犯人の写真があって、それを辻々の高札にするのとは根柢的に性質が違っているのである。
警察が民主的になったので、昔のように容疑者を一々ブタ箱へ入れて取調べる便利がなくなったので、捜査がおくれて困るという。すると、輿論《よろん》の多くが、そうだ、そうだ、遠慮なく昔にかえれと言いかねない有様だから、ものすごい。
帝銀事件の犯人が早くつかまるということよりも、人権を尊重するということの方が、どれだけ大切なことか分らない。この二者は比較を絶しているものなのである。帝銀事件の犯人のタイホがおくれてもよいから、人権を尊重するという国風は断じてこれを守り、確立しなければならない。
かりそめにも警察当局たるものが、人権尊重のためにタイホがおくれるなどと口実をつくるのは奇怪であり、かゝる暴論に対して非難の輿論が起らぬという日本の現実は悲しむべき貧しさである。
密告歓迎などというのも、またひどい。脱税の密告、イントク物資の密告、政府は密告の国風を熱情こめて作りつゝあるもののようだが、脱税やイントク物資よりも密告の国風の方が、どれだけ祖国を害《そこな》い、祖国の卑劣化をもたらすか分らない。
密告歓迎だの似顔絵の高札などは江戸時代の岡ッ引の智慧でやったことで、近代に於ては警察の基礎も文化の在り方の一つでなければならぬもの。一人の犯人をつかまえるよりも、人民保護という原則の確立の方が大切であろう。
昨年のことだが、強盗にやられた家へ警官がとびこんだ。犯人を追っかけ廻して時間がかゝったために、助かるべき被害者の手当がおくれて死んだことがあり、この警官が、被害者を殺したよりも犯人を逃したことを残念がっていたという記事があった。この警察の在り方についても輿論の反響はなかったようだ。
帝銀事件の犯人のタイホがおくれてもかまわぬ。民主警察の確立、岡ッ引根性の絶滅の方がどれだけ重大だか計り知れない。
ストその他
私の四囲の小資本の出版業者などでは、編輯者の給料が千八百円を下まわるようなところまである。あんまり気の毒で、せめて三千円ぐらいなけや生活できないからと私が社長にかけあってやったこともあった。
こんな小会社では争議を起せばクビになるばかりだから、争議も起されぬ。これは気の毒なことである。
反対に、全逓《ぜんてい》などというところは、ストが有力な武器になる。そこでストをやる。問題は、この連中がもしストが武器にならずクビになるだけなら、ストはやらないということだ。当然の要求もできないというのも良くないことだし、ストを武器に便乗するというのもよろしくない。
大切なことは、主観的ではいかぬ、自分の立場を客観的に考えて見なければならぬ、ということだ。
問題は、要求と、労資双方の折合う場との客観的な妥当性にあるのだから、ストは絶体絶命の最後のもので、調停が中心問題だ。調停裁判というような国家的に構成された大組織も必要であるが、労資双方の立場に客観的な考察を払うことが必要で、現在のストに欠けるものはこれであり、主観一方に盲動しているとしか思われない。
ストを武器にすることは、最後の最後のものである。小資本の会社では、ストをやるとクビになる。クビになってもやる。これは絶体絶命の時だ。ストを武器にする時も、それと同じ絶体絶命のものでなければならない。
現実の世相に最も欠けているものは、自己を客観的に考察することの不足である。自己をも現実の種々相をも、またその関係をも、客観的に、また、唯物的に見ることの欠除である。みんなが、無自覚、無批判に我利々々でありすぎる。
特に集団的にそうなり易いもので、ストの性格がそうである。反面には、官僚、為政者の在り方自体がそうで、買い手のないタバコを押しつけて、威張りかえって、イヤならよせという、まさしくファッショそのものの堕落タイハイの限りをさらしている。
裁判でもそうだ。先日、大学助教授のマジメらしき医者が、死体の腹部に赤子死体をぬいこんだ事件など、起訴にならなかったが、私には、検事の主観的考察にかたよったもので、裁判本来の性格を外れたものに思われる。
私は思う。現実に堕落タイハイとよぶべきものは、かゝる主観性の安易な流行である、と。パンパンなどは、まだしも、自ら正義化していないから罪が軽いのである。
子供の智慧
イノチ売りたし、という人が名古屋に現れて流行の兆あらわれ、銀座にも、イノチ売りたしのビラをはった、二十五の元少尉が現れたそうだ。
イノチが本当に買えるわけはないのだけれども、買い手が何人も現れるというから、あさましい。子供たちはクビだのイノチを賭けたがるもので、やい約束だからクビをよこせなど、ケンカに及んでいるものであるが、ちかごろは大人が子供の智慧ぐらいのことを本気でやってる始末である。
八十万円をサギでまきあげた女事務員があれば、十四で十万円をもって逃げた少年もある。
帝銀事件の犯人などはゴマシオ頭のくせに、たった十六万ぬすむのに十二人も殺している。智慧のないこと甚しい。ちかごろ大流行のスリは、たいがい子供の仕業という話であるが、何ヶ月も練習して、十二人も殺してたった十六万ぬすむ、同じぐらいの練習でスリの方がもっと稼ぎがあろうし、後もつゞくというものであるが、子供に及ばぬ智慧のない先生である。
インフレ時代というものは、怠け者とか子供とか、正常では生活能力のない人間が生活力がある仕組で、ちょッと右から左へ物をうごかすと、勤労者の一ヶ月の給料ぐらいが、すぐもうかる。正常時の正常人の智慧はもう散々の敗北で、子供の智慧におよばないという次第である。
先日、帝人の江口榛一が酔っ払って帰れなくなり、新宿駅前の交番へ泊めてもらって、居合した浮浪児とだき合って一夜をあかしたそうであるが、翌朝帰るときに、浮浪児が、オジサン電車賃ないんだろう、これやるから持ってきな、といって十円くれたそうだ。
江口君大感激して、お前はいゝ子だなア、どうだ、オジチャンの子供にならないか、ウチへこないか、というと、交番の巡査がふきだして「江口さん、浮浪児の五、六人養っておくと、あなたは寝ていて食べられますよ」と言ったそうだ。
子供の方が、どうやら生活力のある御時世である。住むに家なく着る物もない人間が、はるかに余裕ある生活を営んでいる。九ツぐらいの子供が悠々とタバコをお吸いになって、十円めぐんで下さるのである。
然し、これを要するに、ひとたび混乱期にぶつかるや、生活拠点も思想信念も見失い、礼儀も仁義も見失って、子供の原始そのままの生活力や仁愛にも敗北してしまう平常時の訓練や教養というものが、つまり何か大事な心棒が欠けていたのだということ、これを知って出直すことが目下我々への最大な教訓じゃないかと思う。
大衆は正直
街頭録音の農林大臣が、私もヤミ米を食べていますと言って群集の歓呼をうけた。大衆は理論はないが、正直なものだ。日本の政治家は自分はヤミをやらないような顔をして政治を押しつけていた。それで国民が納得できるものではない。
然し、農林大臣の正直らしい告白も、大臣としてでなく私人としてヤミをやってる、とあっては怪しいものだ。私人の腹の裏側に大臣という霞を食う腹があるのかな。このアイマイな表現から察せられることは、窮余の告白であるにすぎず、ヤミをやらずに生きられぬ現実のマットウな認識には欠けており、つまりこの現実の矛盾を合理化する政策の成算はもたないことが察せられる。大衆の歓呼の悲痛に切実な現実を三思して、ハッタリから着実な政策へ、心魂を捧げてもらいたいものだ。
職業野球が大衆の興味をあつめはじめている。大衆は正直である。時代の嗜好がスポーツへ動くわけではない。職業野球の内容が充実したから、大衆の興味があつまるのである。
将棋がそうだ。
木村が十年不敗のころは、老朽八段をズラリと並べて、一向に大衆の注意をひかなかった。升田が現れ、頻りに新人の擡頭があって、大衆は正直に惹かれるのである。
将棋の不振のころは、碁の方がまだしも呉、木谷ら新人の活躍で大衆の注目をあつめていたが、目下はサンタンたるもの。それも当然のことで、本因坊戦などという一家名を争うなどとは滑稽奇怪というほかはない。家名が意味を失った時代ではないか。
実力第一の呉清源をはぶいて、手合を争ったところで仕方がない。呉を加えて名人戦をやるべし。名人位を中国に持ってかれてもよいではないか。
他の異国のスポーツにおいては、各々異国の名人位に挑戦しようとしているのである。碁の初代名人が中国にとられる。おのずから、碁の世界化ではないか。実力なければ仕方がない。ケチな根性
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