此奴《こいつ》はモグリだと思つた。三十二哩を十六時間で泳げる筈がないではないか。一時間に二哩だ。彼はそれを明《あきらか》に見送りの人々に言つた。素人をだますのもいゝ加減にするがいゝ。自由型競泳にクロールで千六百|米《メートル》(一哩)だけ全速で泳いでも世界記録で二十分以上、大学の一流選手でも二十二三分で泳いでゐる始末だ。私が中学一年のとき、佐渡出身の斎藤兼吉といふ人が始めてオリンピックの水泳に自由型へ出場して片抜手で泳いだ。このときハワイのカハナモクのクロールに惨敗し、クロールといふバタ足の異様な泳ぎを習ひ覚えて日本へ持ち帰つて伝へたので、私達はこの先生からコーチしてもらつてゐたから、日本古来の泳法は速力の点で問題にならぬことを知つてゐた。まして平泳ときては論外で、一哩だけ切り離して全速で泳いだつて世界一の選手でも三十分では危いだらう。三十二哩を十六時間とは出来ない相談で、もし本人がそれを信じてゐるとすれば益々自分の力量を知らない食はせ者だ。
果せる哉、この男は途中十二哩佐渡行の汽船にのり、どういふ量見だか佐渡の手前で又海へとびこんで夕方七時に両津へついた。二十哩しか泳いでをらぬ。途
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