村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて(私は姓名に記憶違ひがあるかも知れぬ。先生の碑は寄居浜《よりいはま》の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つてみたいな、と泳げもせぬくせに考へるもので、直線距離で三十二|哩《マイル》といはれてゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消えたのである。私が子供の頃教はつた水泳の先生方はこの臥龍先生の弟子に当られる方々であつた。
 私が二十二三の頃であつたが、夏休みで帰省してゐるとき、海軍の水泳教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズムの時代だから先づ新聞社で挨拶する、講演もする、モータアボートをお供につれて出発したが、朝三時といふ出発が四時半頃で、私も夜明けの浜へ見に行つたが、妾だか芸者だか連れてきて、その女に送られて海へはいつて行つた。十六時間で泳ぐつもりだから、ちやうど夕方暗くなるころ着くだらうと何でもないやうに言ひ残したのを私はきいたが、私は
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