小説だと云い、あのように他人のスキャンダルを露出してはいかぬ、と述べていることが、まったく的はずれであること、以上、のべたところで判っていたゞけると思う。
あの作中、たゞ一人、Wという人だけが仮名で出てくる。丹羽君は、なぜWだけ仮名にしたか、仮名にする意味がないではないか、という。
自伝とか私小説といえば、事実を主体にしたものと思うことしか知らぬから、そういう批評が出てくるのだが、あのWは、どうしても仮名でなければならないのである。
なぜなら、あの作中の諸事実は、すべて私の一つの角度、一つの思想によって、選ばれ、構成されているのだが、Wの場合だけは、構成を外れた事実であって、これに就てのみ、作者は選択や構成ができず、つまり、いたわるところがミジンといえども無いのである。だからW氏に限って、どうしても、仮名でしか書くことが出来ないのである。
なぜ、Wだけが仮名であるか、こういうところに私の文学を読み解く鍵が秘められているのであるのに、丹羽君の如く、Wだけ仮名にするとは言語道断、なぜ他の人々に限って実名でスキャンダルを書きあばくか、こう平ぺったく、紋切型にしか読めなくては話にならぬ
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