受けはしないかと思う。
 その意味に於て、私の作品はアマイという批評も有りうると思うが、これが、また、問題のあるところで、作品人物をいたわっている、いたわるためにいたわるのではなくて、かくいたわること自体、いたわり方自体に、私の生き方がある、私の思想の地盤がある、そのことを先ず第一に気付き、考えていたゞかねばならぬ。
 私の「堕落論」とか、人生肯定の態度の底には、この「いたわり」がひそみ、そして、この「いたわり」が徐々に変貌しつゝある。もっと冷酷に鬼の目をむいてみせることは易しいことだ。鬼になるか、人になるか、そこにも又、問題はあるであろうし、私も人たらず、鬼とならざるを得ぬような生長変貌が行われぬとは云いきれぬ。未来のことは分らない。ともかく私が現在辿り得た思想の地盤というものは、私の自伝的作品に於て、私が選んで語らなかった事実、その選び方の上にあるということを知って欲しい。
 そして、その知り方は、読者は事実的にそれを知ることは出来ないのであるから、逆に、書かれていることの事実を、事実としてゞなしに、作者の思想の息吹を通して読みとって欲しい。
 丹羽文雄君が「二十七」を不マジメな私
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