に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。
 このことは、私の自伝的な作品に就ても云えることで、たとえば「二十七」は河上徹太郎とか、中原中也とか、実在の人が登場するけれども、そして、あそこに描かれていることに偽りはないのであるが、然し、それゆえ、これを実話と見るのは間違っている。これは小説なのである。
 なぜなら、あれは、いわゆる私小説とは趣きを異にしている。私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。
 だから、何を書いたか、何を選びだして、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。
 然し、何を書かなかったか、ということは、私と、書かれた当人しか分らない。読者には分らないのである。私の作品に書かれた実在の人々の多くは、私にザンコクに露出せしめられたということより、あるいはむしろ、私に「いたわられている」という印象を
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