ることが出来るのである。高木卓の「小野小町」が、どの小野小町に似る必要があるといふのだ。どこにも、ほんとの小野小町はゐやしない。さうして、何人の小野小町が存在してもかまはないし、存在することができさへすれば、文学として、それでいゝではないか。小野小町でも樋口一葉でも変りはなからう。樋口一葉を見た人は現存しても、そんなものが、芸術としての存在、小説としての真実と何の拘はる所はない。
ドストエフスキーの伝記といふものは無数にある。ところで、もし、神様の御慈愛によつてドストエフスキーがよみがへり、自伝を書いて、又、死んだとする。他人の書いた伝記と、彼自身の自伝とが違つてゐるのは当然だが、然し、自伝だから真実だとは誰も言へぬ。ドストエフスキー自身ですら、さうは言へない筈である。絶対の真実などいふものは、何処を探しても有る筈がない。
僕自身が、自伝的小説を書いても、さうだ。先月号の「古都」にしても、僕はたゞ、実際在つたことを在りのまゝに書いてゐるのだけれども、それだから真実だとは僕自身言ふことができぬ。なぜなら、僕自身の生活は、あの同じ生活の時に於ても、書かれたものゝ何千倍何万倍とあり、つま
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