してゐるのだらうか。我々は物心がつくと日記をつけることができる。見たり聞いたりしたことを特定の自家の生活として規定してゐる次第である。だから、歴史といふものは日記の手のとゞかない所にあるのだらう、と、今、考へてみたのだが、然乍《しかしなが》ら、さう考へると、「現代」そのものが歴史でないと誰が言へる。
誰が現代を見てゐるか、自分の家と会社と往復の道とオデンヤぐらゐのものではないか。ラジオで日米英開戦を知り、慌てゝ街へでて号外を読み、たつたそれだけのことで大東亜戦争が「歴史」ではなくなり、「現代」になる。多分それでいゝのかも知れぬ。歴史と現代の違ひといふものは、結局、それぐらゐのものなのだ。誰も歴史を知らないことが事実なら、誰も現代を知らないことも、亦、事実だ。自分の女房しか知らない男が、「現代の女性」に就て小説を書くのが滑稽だらうか。現代の女性などは、誰だつて知らないのだ。知らないものは、存在しない。然し、書くことはできる。さうして、書くことによつて、存在することは出来るのだ。してみれば、歴史の女性も亦、同じことだらう。誰も知らないけれども、書くことはできるし、書くことによつて、存在す
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング