私が子供の屍体をひきあげると、すぐ、戻りませうよ、と言つた。そして二人が小舟へ戻ると、困つたことに、私が舟へ立てかけておいた大事のステッキがなくなつてゐる。飛びこんだハズミに落ちて流れたのだ。この籐のステッキは無一物の私がたつた一つの財産に大事にしてゐたもので、それはステッキを愛用した人でないと分らないが、身体の一部の愛着がわくもので、私の嘆きは甚大だつた。幸ひ小舟にはモーターがついてをり、まだガソリンがあつたので二三|哩《マイル》下流まで追つかけてみたが見当らなかつた。もう水面はたそがれて暗くなつてゐる。たそがれの水面を低く這ふやうに走るといふことはいゝ気持のものではないが、例の屍体の沈んだところを通ると、もう岸に人影はなく、たつた三隻の小舟だけがもうあたりもしかとは見えない暗い水面に竿を突つこんで屍体を探してゐる。水からの蒸気がそれをかすかに包んでをり、オーイ、もう一度もぐつてくれないかオーイ、オーイ、と呼んでゐる。冗談ではない。真昼の太陽の下でも、もぐるのが怖しくなつてしまつたのだ。
 その日から私は小さな町の英雄になり、伊勢甚の子供が私のステッキのことを誇大に言ひふらして私がわ
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