る落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた。もとより小学生の私は大将だの大臣だの飛行家になるつもりであつたが、いつごろから落伍者に志望を変へたのであつたか。家庭でも、隣近所、学校でも憎まれ者の私は、いつか傲然と世を白眼視するやうになつてゐた。もつとも私は稀代のオッチョコチョイであるから、当時流行の思潮の一つにそんなものが有つたのかも知れない。
然し、少年時代の夢のやうな落伍者、それからルノルマンのリリックな落伍者、それらの雰囲気的な落伍者と、私が現実に落ちこんだ落伍者とは違つてゐた。
私の身辺にリリスムはまつたくなかつた。私の浪費精神を夢想家の甘さだと思ふのは当らない。貧乏を深刻がつたり、しかめつ面をして厳しい生き方だなどゝいふ方が甘つたれてゐるのだと私は思ふ。貧乏を単に貧乏とみるなら、それに対処する方法はあるので、働いて金をもうければよい。単に食つて生きるためなら必ず方法はあるもので、第一、飯が食へないなどゝいふのは元来がだらしのないことで、深刻でもなければ厳粛でもなく、馬鹿々々しいことである。貧乏自体のだらしなさや馬鹿さ加減が分らなければ文学などはやらぬことだ。
私は食ふために働くといふ考へがないのだから、貧乏は仕方がないので、てんから諦めて自分の馬鹿らしさを眺めてゐた。遊ぶためなら働く。贅沢のため浪費のためなら働く。けれども私が働いてみたところでとても意にみちる贅沢豪奢はできないから、結局私は働かないだけの話で、私の生活原理は単純明快であつた。
私は最大の豪奢快楽を欲し見つめて生きてをり多少の豪奢快楽でごまかすこと妥協することを好まないので、そして、さうすることによつて私の思想と文学の果実を最後の成熟のはてにもぎとらうと思つてゐるので、私は貧乏はさのみ苦にしてゐない。夜逃げも断食も、苦笑以外にさしたる感懐はない。私の見つめてゐる豪奢悦楽は地上に在り得ず、歴史的にも在り得ず、たゞ私の生活の後側にあるだけだ。背中合せに在るだけだつた。思へば私は馬鹿な奴であるが、然し、人間そのものが馬鹿げたものなのだ。
たゞ私が生きるために持ちつゞけてゐなければならないのは、仕事、力への自信であつた。だが、自信といふものは、崩れる方がその本来の性格で、自信といふ形では一生涯に何日も心に宿つてくれないものだ。此奴は世界一正直で、人がいく
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