らおだてゝくれても自らを誤魔化すことがない。私とておだてられたり讃めたてられたりしたこともあつたが、自信の奴は常に他の騒音に無関係なしろもので、その意味では小気味の良い存在だつたが、これをまともに相手にして生きるためには、苦味にあふれた存在だ。
私は貧乏を意としない肉体質の思想があつたので、雰囲気的な落伍者になることはなく、抒情的な落伍者気分や厭世観はなかつた。私は落伍者の意識が割合になかつたのである。その代り、常に自信と争はねばならず、何等か実質的に自信をともかく最後の一歩でくひとめる手段を忘れることができない。実質的に――自信はそれ以外にごまかす手段のないものだつた。
食器に対する私の嫌悪は本能的なものであつた。蛇を憎むと同じやうに食器を憎んだ。又私は家具といふものも好まなかつた。本すらも、私は読んでしまふと、特別必要なもの以外は売るやうにした。着物も、ドテラとユカタ以外は持たなかつた。持たないやうに「つとめた」のである。中途半端な所有慾は悲しく、みすぼらしいものだ。私はすべてを所有しなければ充ち足りぬ人間だつた。
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そんな私が、一人の女を所有することはすでに間違つてゐるのである。
私は女のからだが私の部屋に住みこむことだけ食ひ止めることができたけれども、五十歩百歩だ。鍋釜食器が住みはじめる。私の魂は廃頽し荒廃した。すでに女を所有した私は、食器を部屋からしめだすだけの純潔に対する貞節を失つたのである。
私は女がタスキをかけるのは好きではない。ハタキをかける姿などは、そんなものを見るぐらゐなら、ロクロ首の見世物女を見に行く方がまだましだと思つてゐる。部屋のゴミが一寸の厚さにつもつても、女がそれを掃くよりは、ゴミの中に坐つてゐて欲しいと私は思ふ。私が取手《とりで》といふ小さな町に住んでゐたとき、私の顔の半分が腫れ、ポツ/\と原因不明の膿みの玉が一銭貨幣ぐらゐの中に点在し、尤も痛みはないのである。ちやうど中村地平と真杉静枝が遊びにきて、そのとき真杉静枝が、蜘蛛が巣をかけたんぢやないかしら、と言つたので、私は歴々《ありあり》と思ひだした。まさしく蜘蛛が巣をかけたのである。私は深夜にふと目がさめて、天井と私の顔にはられた蜘蛛の巣を払ひのけたのであつた。私は今でも不思議に思つてゐるのであるが、真杉静枝はなぜ蜘蛛の巣を直覚したのだらう? こ
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